「寝た?」
「うん、トイレに寄ってから寝た。疲れたなって言ってた」
「歩くのを見ていても百メートル行けば休憩が必要だものな。
今度外出するときは車椅子を用意した方が良いな。福祉用具貸与業者から借りても、母ちゃんの場合は一割負担だから月に四、五百円の負担で済む。わざわざ四、五万円出して新品を買う必要もない」
「区役所がまとめている高齢者のための福祉ガイドを貰って来てある。施設とか相談窓口とか業者の一覧が載っていた。確か本棚ね」
「車椅子だけでなく、母ちゃんのために家の中でもあった方が良いってもの有るか?」
小さな本棚を調べる背に声をかけた。
「介護用のベッドかしら。最近は布団から起きるとき大変そうなの。ベッドからだったら楽に立ち上がれるでしょ。夜中にトイレに立つときも、きっと楽だと思う」
義子はガイドブックを手にしていた。
「それも必要だな。この部屋に介護用の電動ベッド入れられるかな。一晩何回ぐらい起きてるの?」
「二回か三回ね。寸法計ってみる?」
「俺の職場で使っている物からして介護用のベッドは縦に二メートル十、幅一メートルのスペースは必要だ。それで周辺の動線に困らないかだね、何か測定するもの、メジャー有る?」。
ベランダは南向きにある。ベランダへの出入口を確保して窓辺にテレビ台とテレビを置き、少し離して介護用ベッドを東西に置く。それでも電気こたつを置くスペースは北側に確保できそうだ。
「キッチンと部屋との間仕切りは今まで通り開けたままでいいね。その方がベッドが入っても窮屈さを感じないだろう。特に困ることもないだろう?」
「うん、使えそうね。そうと決まったら業者に連絡してみる?」
「いや、先ずは居宅介護支援事業所に連絡してケアマネジャーにお袋のためのケアプラン、在宅介護計画を立ててもらうことが先に必要になる」
「居宅介護支援事業所はどうやって探すの?」
「ガイドブックに事業所一覧が載ってるハズだよ。見てごらん」
「母ちゃんの住民票は田舎のままよ。それでも問題ないの?」
「介護保険は医療保険制度と同じ。全国、本人が何処に居ても使える。
お袋が介護度2であることを伝えて、介護保険の中で利用できるサービスを利用して行こう」
「母ちゃんの意見聞かなくても大丈夫かしら」
「先にお袋に言うと余計なお金使うなって言うよ。決めて、明日にベッドが入ると言えば反対はしない。それで良いさ。
ベッドに専用のマットレス、転落防止用のサイドレール、介助バー、手すりのことだよ、一応それをセットで借りてもレンタルなら月額六、七百円だ。買ったら二、三十万(円)はする。レンタルを利用しない手は無い。
それに、週に一回や二回、デイサービスを利用するのも良いかもしれない。お前が仕事に出かけた後、お袋がこの部屋にズーっと閉じこもっているよりは良いはずだ」
上京してちょうど二か月が経つ。お袋は正月も田舎に帰らなかった。田舎に帰るとも言わなかった。ならば、住民票は今まで通り田舎に置いても、ここで長期に住める環境を整えていく必要がある。
居宅介護支援事業所一覧から団地に近いところの事業所を選び出した。営業時間が平日の九時、五時になっている。
今日は一月七日、金曜日、平日。義子と示し合わせて休暇を取って良かった。
まだ時間がある。そう思いながら支援事業所に連絡した。
夕方四時半頃なら訪問できますと言う回答に、お願いしますと応えた。
詰めて考えていた母の介護サービス利用ではなかったが、一気に話を進めた方が良い。義子も私もまだ現役で働いているのだ。そうそうに平日に休暇をとれる身ではない。また、義子一人に母の世話を任せておくより安心だ。
「夕食、何を準備する?。母ちゃん、何を喜ぶかな?。七草粥ではものたりないしな」
ケアマネの訪問前に夕食の準備をした方が良いと思うと、俄に急かれる思いがした。義子が思わぬ事を口にした。
「はっと汁、どう?」
「はっと?」
「うん、正月で魚にも飽きたし、ハンバーグも中華も食べた、今日はお昼にお蕎麦を食べてきたでしょ。田舎で作ったはっと汁。それなら簡単でしょ。母ちゃん喜ぶと思う」
「はっと汁か」
「インターネットでレシピ引っ張り出してみる?」
「いや、お袋を手伝って小さい頃に何度も作ってるよ。中、高校の時は共稼ぎのお袋に変わってお前や信夫のために作ったんだもの、レシピを見なくても大丈夫だ。俺流だけどね。
豚汁に耳たぶほどに練った小麦粉の塊を入れたようなものだ。東京では、すいとんかな?言い方が。
材料はあるかな?。鶏モモ肉、大根、ニンジン、ゴボウ、シイタケ、油揚げ、薬味に長ネギ、後は調味料だ。味噌、塩に本だし。醤油より味噌味の方が良いだろう?」
「うん。大根、ニンジン、ゴボウに長ネギ、油揚げは残っているけど、鶏モモ肉とシイタケは買ってこないと無くなってる。豚肉ではだめでしょ?。買ってくる」
義子が出かけると、流しの前で何年ぶりかなと思う。家では自分が調理に立つことはない。料理をすること自体が嫌いではない。娘達が小さい頃に時々炊き込みご飯を作ったり野菜炒めを作ったりもした。だけどある日に冷蔵庫を開けて、腐らしている野菜や果物を見て優子とケンカになった。それが何度かある。
貧乏育ちの私には冷蔵庫の中で物を腐らせるのは納得できない。ケンカをしなくて済む方法、それは自分が冷蔵庫を見ないこと、調理をしないことだった。以来この数十年、優子が風邪をこじらせて寝込んだりしたとき以外、自分で冷蔵庫に入っているものを細かに見ることは無かった。今は飲み物が欲しい時でも、ビール、ジュース、牛乳、氷、アイスはあるかと妻に言うだけだ。
ボウルに小麦粉を入れて水を少しずつ加えながらこねる。少し柔らかすぎないかなと思いながら濡れたふきんをかぶせ置いて、はっとの生地にした。
大根はいちょう切り、ニンジンは短冊切り。厚みは三,四ミリ。これで良いだろうと、ささがきにして水に浸しておいたゴボウと一緒のざるにまとめた。
ポットからお湯を取り、沸かして熱湯を油揚げにかけた。油抜きの方法は優子から教えられた。田舎にいて作ったときは油抜きをしていなかったなと思う。細めの短冊切りにしてとりあえず小皿に置く。ネギはザク切りと、薬味用に刻んだものを小皿に取り分けラップをかけた。
「買って来た。鶏はモモ肉で良いのよね。シイタケは結構身が大きい。ご飯炊こうかと思ったけど、母ちゃん、ご飯よりパンの方が良いかもと思って一斤買ってきた。バター付けて食べるのも良いでしょ。食べなきゃ、明日の朝食べても良いもの」
「えっ。はっと汁にパン?。うーん。ご飯炊こう」
明日の朝になればどっちみちパンだろう。母と義子の食卓を思った。