「出ないね。姉も居ないのかな?」
遠くで鳴る呼び鈴がむなしく耳に響く。切ろうとして、姉の声が返ってきた。
「はい、千田です」
「久美子姉ちゃん、俺、仁志だ」
「どうしたの?。今畑から帰ってきたばかりだ。大根を背負えるだけ掘ってきた。昨日も今日も朝は零下になった。畑さ放って置いたら大根が凍みで腐って食べられなくなる。
なんぼ(幾ら)でも室に入れて置かねばと思って行って来たのっしゃ。お昼(食事)はこれからだ」
「さっきから電話してたんだけど、智兄は?」
「寝てんだべ。畑に誘ったけどさっぱりだ。起きで来無ャ。腹へったべがらお昼用意できたら起こしてみんべ(起こしてみる)。何があったの?、母ちゃん元気が?」
「うん、今日、勤労感謝の日だべ。休みなもんだから義子が母ちゃんを連れて俺んところに来ている。母ちゃんは元気にしているよ。今、昼めし食べて昼寝させた。
夕方には孝一兄達と所沢で待ち合わせて一緒に夕食を食べることにしている」
「良いね。母ちゃんも良いご身分だごど。皆に囲まれで嬉すかんべ(嬉しいだろう)。親孝行してけんさい(してください)。俺方は楽で無ャけんど」
「ズーっと藤沢の家に居るの?、一関には帰って無ャ?」
自分で分かっていてもズーズー弁になる。
「智の診察のある日、精神科に泌尿器科だべ。その日が月に一回有っ(有る)からその時に俺の家さ寄って来た。
市民住宅も空けっぱなしにす(し)ていでは何だかんだと周りから言われっから。追い出されたら俺も困るべ。智の診察の日と、外に俺も疲れたら一日、二日一関さ帰っていっぺ(いる)。
智には、俺の居ない日は自分でパンでも弁当でも買ってきて食べろって言った。自分で食事の用意するなんて智は今まで無ャもんね。母ちゃんも御飯のたき方ぐらい教えておけばよかったのに。何から何まで面倒見すぎでいだべ。
智に米を研いで炊飯器の使い方教えたけど、さっぱりだ。何もし無ャ(しない)。本当に心配になる。でも気が向いで畑に行って来る日があって、汚れ物を自分で洗濯してあったのにはかえって驚いだ。
まあ、こんなどご(ところ)だ。考えたって仕方無ャ。それより母ちゃん、田舎さ帰るって言わ無ャがった?」
「うん、言わない」
決心して田舎を出てきた。田舎に帰ったらまた地獄の苦しみが始まる。母の言葉と涙を見せた姿が頭をよぎった。
「よっぽど(余程)義子とお前達の面倒見が良いんだべ。元気にして居ん(る)なら良がすー。
母ちゃんの声も聴きだがったけど、寝てん(る)では仕方無ャな。智も元気にす(し)てるって、心配無ャって言っておいで(言って下さい)。
正月さ(に)こっちに来るベが。田舎は寒いがらな。母ちゃんの身には堪えられっぺが。東京の方が温かくて、お前達が良くて、それが分がってもう田舎は忘れたがもな」
「いや、田舎のことを心配しているよ。智兄の話になって心配していた。姉ちゃんに世話かけるって、よろしく頼むって言ってた。こっちに来てまだ十日だ。正月に一旦帰るかどうかはまだ話し合っていない」
姉ちゃんに世話かける、よろしく頼むと母の心配に自分の気持ちを加えた。
「義子に電話変わるよ」
「もしもし、姉ちゃん。元気?。何してた?。智兄ちゃんも元気?」
「今、畑さ(に)行って来たって言ったばかりだ。これからお昼(昼食)の用意だ。智は母ちゃんが居なくなって二、三日はふてくされで寝てばっかり居たども、ここ何日かは天気が良いと畑に行って見たりして、母ちゃんの変わりに畑を見なければって思ったのかも知ん無ャ(しれない)。
ネギとか、ほうれん草とか自分で取って来るようになったべ。まあ何とかやってる。
いま仁志にも言ったけど、正月には一遍帰って来。母ちゃんも本心は会いたかんべ。智だってそうだ。正月くらいはこの間の温泉に行ったときみたいに皆でこのボロ家に集まっても良いべ。
なに正月だって田舎の寒さだもの、二、三日居たら母ちゃん連れてまた東京さ戻って良え。母ちゃん田舎さ行くって言わないべが」
「分かった、そのうち母ちゃんと話してみるね。兄ちゃんは?、電話に出れる?」
「まだ床の中だ」
そう言って、ハハハと笑う姉の乾いた声が受話器から漏れて聞こえた。
「兄ちゃんのことよろしく頼みます。食事は良く取るように、薬は忘れないで飲むように、寒いから風邪を引かないように。久美子ちゃんも風邪を引かないように気を付けてね。
声を聴いただけでも嬉しい。母ちゃんに後で伝えておくね」
電話を切った義子と目が合った。
「久美子姉ちゃん、正月に母ちゃん連れて一度田舎に帰れって。母ちゃん、うんて言うかしら」。
私は首を横に振った。
「お袋がさっき言っていたことと、母の性格からして帰らないと思う」
決心して来たという母の言葉を思い返した。
「俺はお袋に今の姉ちゃんの言葉を言わないよ。お前が高島平に帰ってもう少し経ったら、正月はどうする、一度一緒に田舎に帰って見るかって聞いてみて。それで行くと母ちゃんが言えば俺も同行しても良い。車椅子を用意した方が良いだろう。でも母ちゃんは行くとは言わないと思う」
「お義母さんは気が強い人よ。息子娘に頼らず我慢して我慢して九十近くなるまで独りで智さんのこと面倒見てきたんだもの。それが、決心して出て来たというあの言葉、本当に智さんの世話が出来なくなった、面倒を見れなくなった。お義母さんの本心だったのよ」
智の首を絞めて俺も楽になる。優子はその言葉を飲み込んだ。
「田舎に行けば親心が起きるもの、お義母さん、帰らないと思う」
襖の向こうで何かの物音がした。耳の遠い母に聞こえるはずもない。それでも三人の会話はそれで途切れた。