「智はどうして居っ(る)かな。俺達(おらだず)(むかす)(はなす)もいいげど、今頃何をすてっぺ(しているだろう)。寒ぐなって炬燵も石油ストーブもちゃんと使ってんべが(使っているだろうか)」

 不意に田舎のことを言う。母の顔を見ると、遠くを見るような顔だ。目の前のお茶を一口啜ると、突然小さな肩を震わせて泣き出した。

「どうした」。

 私はそれ以上の言葉を掛けることができない。自分の過去の話から現実の今を思い描いている母の姿だ。

「俺は智を捨ててきたようなもんだ。薄情な(かか)だべ。智は一人では何も出来無ャ。それを分がっていで(おら)は東京さ来たんだがら。この十日ばが(か)りも、炬燵に火を入れたが石油ストーブは使ってっぺ(使っている)が、寒ぐ無ャようにすていっぺ(して居る)が、朝御飯食べたべがって、夕食に何食べたがって気になった。夜中に目が覚め(る)っごどもあっぺ」。

「姉ちゃんがちゃんと(しっかり)面倒見てるよ。心配しなくていいよ。

母ちゃんが居る時にも炬燵や石油ストーブは引っ張り出したんだろ。火に気を付けて使っているさ。

久美子姉ちゃんもきっと側にいることだし心配はいらないよ。何なら今から田舎に電話してみるか?」

「それが良い。母ちゃん。電話入れてみる?」

 私の言葉に続いた義子の声に一瞬明るい顔を見せた母だったが、すぐに首を横に振った。そしてテーブルの上に目を落として独り(つぶや)くように言った。

「声聞いだら田舎に飛んで帰りたくなっぺ。決心す(し)て東京さ来たんだ。智も(おら)の声を聞いだら、何時帰って来るんだ、帰って()って言うべ。帰りたくなる。そすたら(そうしたら)、また何も出来ねャで、(おら)にとって地獄(ずごぐ)の苦す(し)みが始まる。

歳取って(おら)は面倒見切れなぐなった。智の首を絞めて(おら)()んだ方が()え。そしたら楽になる。そんなごど何遍思ったごどが。

 今だけで()ャ。親父が()んで義子も信夫も高校さ卒業して東京さ出で智と二人になって約三十(さんずう)年、なにくそと思って頑張っていだ(どぎ)にもそんなごどがあった」

 私も義子も優子も沈黙した。つい先ほどまでの浮いていた気持ちは一遍に無くなった。何時入ったのか季節外れの小蝿(こはえ)がガラス窓にぶつかって外に出たがっている。

 身体であれ知的であれ精神的であれ障害を持つ子を抱えた親が、自分が死んだ後の我が子のことを心配する。保健所勤務の時のタウンミーテイングや医療費助成課勤務の時の予算要望等で耳にした障害者を抱えた親等の語る、切実な老後の不安が思い出された。

 不意にチャイムが鳴った。受話器で応答した妻が振り返って、お寿司屋さんと言う。そのまま玄関口に出て行った。場の雰囲気が救われた思いがした。気を取り直して、昼飯だ、出前取った、食べよう、と誰にともなく言って私も玄関口に回った。

 

「お義母さん、寝た」。

「うん、夕方までこのまま昼寝させて置いた方が良い。血糖値が上がって眠くなったのだろう。少しは気持ちが落ち着くだろう。孝一兄達とは所沢、六時の約束だ」

 リビングに続く六畳の和室に床を敷いて、義子、優子が母の昼寝を手伝った。腕時計は一時を回ったばかりだ。

「お寿司。少し残したけど食べてくれたね。さっき、母ちゃんの言葉にドキッとした」

 義子の言葉を聞きながら、優子にコーヒーを淹れてくれるよう頼んだ。

「お袋、感傷的になっている。仕方ないさ。智兄と二人だけの生活が三十年近くもあったんだ。智兄が健康で女房子供もいる中で一緒に生活してきたならまだしも、兄は精神障害者で独り(者)だ。都会の隣は何をする人ぞと違って田舎だ。母ちゃんも隣近所から白い目で見られることもあったろう。

 なにくそと思って頑張っていた時にもそんなことがあったって言ったろう。俺に手紙を書いて寄越した。十年、十五年前になるかな。今も俺の机の抽斗(ひきだし)の底にあるよ。

 手紙では何があったのか何が原因だったのかは書いていない。ただ、家の中で智兄が母に暴力をふるったことが書いてあった。母は助けを求めて大きな声を出したらしい。向かいの布団屋さんが聞き付けて警察に連絡した。保健所にも布団屋さんからか警察からか連絡が行ったらしい。お袋の手紙は、騒動があったことを言い、その後のことを書いていた。今頃、智は目を覚ましたでしょうか。目が覚めたら病院の鉄格子の中。智が可哀想でなんねャって書いてあった。

 きっと鎮静剤かなんかを保健所の医者が打って眠らせたのだろう。母ちゃんは暴力を受けた被害者だ、だけど手紙は親の心になっていた。目が覚めたら鉄格子の中、可哀想だと言い、いっそ智を殺して楽になりたいって書いてあった・・・。

 このことはお前にも孝一兄にも、信夫にも優子にも俺は言えなかった。

 精神障害者や引きこもりの成人(ひと)が世間を騒がせる事件を起こしたとテレビ、新聞が報道するたびに、俺は驚くどころか、どうすりゃいいんだ、だから何をどうすれば事件を防げるのかっていつも思う。他人(ひと)(さま)の事でも事件の報道があると精神的ショックはいつも人には言えないくらいあるよ」

「・・・・・・・・・」

「コーヒー飲んで元気出して。今、お義母さんはここに居るんだもの。皆で出来ることをしてあげないとね。智さんのこと、それこそお母さんに内緒で田舎に電話してみたら?」

 沈黙を破るように優子が言う。義子と顔を見合わせた。黙ったまま頷いた。