「電車、混んでたか?。座って来た?」。
「うん、教えられた通り指定席取ってレッドアローで来た。所沢で普通電車に乗り換えてから座れるか心配したけど、小手指駅止まりで空いていた」
「そうなんだ、各駅止りの飯能(駅)行きがレッドアローより先に所沢に着いて待っている。それだと結構混む。所沢に着いたらその後の小手指駅止まりにしろと言ったのはそれでなんだ。所沢から二駅しかないからね。母ちゃん、どう?、義子ん(の)処少しは慣れた?」
義子に続いて改札を出たばかりの母に声をかけた。杖を右手にした母は、軽くて暖かそうなコートを着てニットの縄柄マフラーをしっかりと首に巻いていた。
「仁志んところ、どのぐらい歩くべ。俺、歩けっか(歩けるか)?」
「歩いて七、八分だけど、下に降りてタクシーで行くよ。義子が高島平から運転して来ても良かったんだけど、自家用車の無い時に俺の家までどうやって来るのか、どれだけ義子のところと離れているのか、孝一兄の家がある東久留米駅が途中何処なのか、知ってもらおうと思って敢えて電車で来いって言ったんだ。
巣鴨も、池袋も人混みで乗り換えが大変だったろう?」
来るまでに疲れたのか、母の返事はなかった。改札口から少し離れたところにあるエレベーターを利用して駅前のロータリーに出た。
郵便受けの傍にあるチャイムを押す。中から優子がドアを開けた。
「お義母さん、いらっしゃい。来るの、大変だったでしょう。どうぞ。寒いから中に入って下さい」
「ありがとう。お邪魔すんべ(します)」
玄関口の扉の前で母はコートも脱ごうとした。
「お義母さん、寒いから中に入ってから脱ぎましょ。それで良いんですよ。都心からみたらここは気温が二、三度違うのね・・・。スリッパを使って下さい」
田舎から母を引き取る話になるといつも渋い顔をした妻だったけど、今はおくびにも出さない。
リビングのテーブルを前に座った母は、何の手土産も持たないで来たよと言う。義子が、途中、池袋のデパートで二人で買ってきたという菓子折りをテーブルの上に置いた。
「お昼前だから後でいただくとして、お茶で良いかしら?」
「お茶、貰うべ(貰いましょう)」
改めて挨拶を終えた妻がキッチンに立つ。
「どう、義子のところでの生活、慣れた?」
母に声を掛けたけど、義子の応えが先だった。
「一昨日、日曜日に母ちゃん連れて亀戸天神に行ってきたよ。
母ちゃんが一番行きたいところって言っていたから行ってきた。私は初めて行ったけどとても広くて大きな藤棚があった。藤の見頃は四月下旬から五月初めらしいけど、色鮮やかな太鼓橋があって菊祭りが開催中だった。それを見るだけでも楽しかった。
そこから両国国技館や墨田川。浅草ってすごく近いのね。国技館は外観を見ただけで素通りしたけど、墨田川の緑道をほんの少し歩き、浅草は浅草寺にお参りをしてきた。
そこから東京タワーにも行って来たよ。母ちゃんの青春時代、亀戸天神から近いところに働いていた紡績工場があったんだって」。
「お義母さん、何歳ぐらいのときかしら?」
急須と湯飲み茶わんを乗せたお盆を運びながら、妻の言葉が入った。
「俺は十四(歳)の時に東京さ出てきて二十四(歳)までそこにいた。亀戸の天神様が辛い時も嬉しい時も一緒だった。
泣きたくなったら天神様に来て、嬉しいことがあると報告に行ったりした。
学校もろくに行けなかった俺が、勉強すんべ(しよう)と思ったのもあの天神様のお蔭だ。菅原道真は勉強の神様だべ。俺の結婚前の苗字も菅原だ」
「そう言えばそうだね」
私が言葉にして頷く。義子が微笑む。
「道真公の子孫が鎌倉時代に今の宮城県の県北辺りに来だとか聞いだごどがある。役人で来たのか、領地があったのか分がんない(分からない)げど、俺が生まれだ登米(現宮城県登米市)辺りには菅原って苗字が結構あんべ(ある)。俺は勉強の神様が同じ菅原と聞いで、俺も勉強すんべ(しよう)と思ったもん(の)だ。
一緒に仕事す(し)た先輩や仲間、寮長さ(に)頼んで読み書きを教えてもらった。小学校もろくに通えなかった俺だったども新聞も読めるようになった。
だども(だけど)行って見で、天神様は昔のままだけど周りは何処さ(に)行っても何処が何処だが分かん無ャがった。
(隅田川の)土手沿いは綺麗に整備されで何処も公園みたいだったす(し)、見える周りは高いビルが一杯だった。
浅草の仲見世の人混みは昔も今も変わん無ャね。店も建物も綺麗で立派になったな。俺が見だ映画館なんて勿論無ャけど、そのあった場所なんてさっぱり分がん無ャ(分からない)。
男の人達がよぐ通った吉原は町の名前で電信柱に残っていたな。俺は昔浦島みたいなもん(の)だ」
「義子さんのお陰で思い出の処に行けたなんて、お義母さんよかったですね。冷めないうちにお茶をどうぞ」
「母ちゃんが東京に居たのは六、七十年も前だもの。しかも戦争前のことだ。焼け野原になった後の東京の街は日本の経済成長とともにまるっきり変わったさ。
母ちゃんが居た頃なんて見る影もなかったろう。でも勤め先はずっと墨田区にあったの?」
「んだ。俺が働いだ紡績工場は墨田区の本所にあった。約十年も働いだ(た)んだもの当時のごど覚えでる(ている)。周りにはマッチや歯磨き粉、石鹸を作る工場もあったべ。朝から晩までよぐ(く)働かされだども、休みの日が楽しみで一緒に働ぐ友達と上野でも浅草でもよく遊んだ。
上野駅は総武線で秋葉原に出て一本だべ。上野は田舎に帰る駅だ。田舎につながってんだ。上野にはよぐ行ったよ。
亀戸の天神様は近くにあったがら、悲しいことがあって嬉しいことがあって一人でお参りに行ったもんだけど、上野は故郷が恋しくなったら同じ職場に働く女友達同士で出かけた。上野の森でそっと泣いたごども西郷さんの銅像の前でくじけちゃなんねえべと皆で誓い合ったこともあんべ(ある)。天神様も西郷さんも昔と変わっていながったよ」
「東京で働く東北人には上野駅は外せないね。故郷を離れて東京に第一歩を踏むのが上野駅だ。俺も夜行列車で上野駅に着いた朝のことをよく覚えている。車窓の隙間から入ったデゴイチの吐き出した煤で首周りは真っ黒。
終点、上野、上野っていうアナウンスとピーピー響く駅員の笛、到着した人を旗を振りながら探す人、朝からホームのすごい人混みに、これが東京なんだーと思った。同時にすごい緊張感に襲われたね」
「私は上野駅に着いたのは夕方六時。朝六時に田舎の家を出て上野に夕方六時過ぎだもの、今じゃ考えられない。
職場になる信用金庫の人だという人が旗を持って駅に迎えに来てた。名前を聞かれて、はい、千田義子ですって答えて緊張した。どうしようと一瞬思ったもの。声を掛けた人事担当だという男の人と一緒に隣に女の人が居なかったら連いて行かなかったと思う。東京は怖いところ、そんな言葉を田舎でさんざん聞かされていたから職場の先輩になるという女性を紹介されて、ホッとしたのを今も覚えている。
その女性に連れられて北区の豊島というところの女子寮に入った。それは忘れられないね。母ちゃんじゃないけど、そこから東京での喜びも悲しみも一杯知ることになったんだものね。
私も寂しくなって独りで上野駅に行ったこと、西郷さんの前に行ったこと何度かある」