「もしもし。お袋。俺だ。田舎はこれから寒くなる。寒い時期だけでも俺のところに来たらどうだ。今から来年の三月、四月まで俺のところに来ても良い。畳の部屋も空いているし、娘達が使っていた部屋も空いている。ベッドが良いなら、娘が置いて行ったベッドも使えるよ。所沢の方が田舎よりもずっと暖かい。どう、来る?」
「久美子がまた何か言ったがあ?。俺を追い出したいんだべ」
「そんなことないよ。母ちゃんの身体を心配してる。智兄の面倒見るのも大変になったんだろう。朝昼晩食事を作るのも、寒いこの時期の洗濯もお風呂の準備もお袋の年齢では大変だっていうの、分かるよ。思い切って、姉ちゃんに兄貴を任せてお袋は寒い時期だけでも俺のところに来たらどうだ」
「二、三日前に、俺は寒いのになぜ障子を開けっ放しにするって、久美子ど喧嘩す(し)たばかりだ。障子という障子に襖を開けっ放しにす(し)て、掃除すっ(する)からって言うけど、何、大す(し)た掃除でも無ャ。俺のごど考えもし無ャ(無い)で掃除すっ(する)から怒ったのよ。
智も寒いって言っていだ。俺の家だ、余計な事すん(する)なって言ったのしゃ」
「分かった。それはそれで母ちゃんがこっちに来るかどうか、俺も心配だから言ってるんだ。智兄の事も心配だろうけど姉ちゃんが世話してくれるって言っているんだから、姉ちゃんに任せて寒い時期だけでもお袋はこっちに来たら良い。何十年ぶりかの東京見物だと思って、来てもいいんじゃないの?」
「東京が。行って見たい気もすん(する)な。この間の一泊旅行も良がった。俺には久す(し)ぶりの温泉だったども、親子皆で顔を合わせられで良がった。紅葉が綺麗で良がったよ。ありがとう」
「ああ、楽しかったね。兄弟皆が集まったのは親父の葬式以来だったものね。孝一兄と嫁さんも来てくれたし、亡くなった忠男兄の奥さんも来てくれたんだから言うことなしだったろう?。でも俺よりも義子に感謝しないとね。
提案して皆を集めるきっかけを作ったのは義子なんだから」
「少す(し)心配す(し)た福島も来たもんな。お陰で冥途の土産になった。父ちゃんさ(に)会ったら報告できっぺ(できる)」
「何馬鹿なこと、何言ってんだよ。まだまだ母ちゃんには元気でいてもらわないと。皆そう思っているんだよ。こっちに来るのを期間限定で割り切って考えたら良い」
十一月に入ったのに所沢辺りは気温が二十度もある日が続く。異常な温かさだ。しかし、今朝の天気予報は東北地方に冬の訪れを伝えていた。朝の冷え込みが五度を下回ったという。寒い日が続く予報だ。
姉から母達が自分たちの食事も準備できていないと私の職場に電話が入ったのは今日のお昼時だ。心配で生家を覗いてくれる姉と母との間が近頃うまくいっていない。姉が何かを言っても頑なになっている母が想像できた。
東京に行って見たい気もするなの一言が母を所沢に呼ぶ頼りの言葉だ。今まで決してそのようなことを口にすることはなかった。脳梗塞で残った左足を引きずる母の姿が浮かぶ。弱気になっていることが想像できる。
「私の所に母ちゃんを預かっても良いよ。春までというならそれでもいいけど、食事を作るのも面倒になっている母ちゃんをそれだけで田舎に返せないでしょう。
もう智兄ちゃんの面倒を見るのは無理。自分のトイレさえ間に合わない。何かと頑なになって、姉ちゃんとぶつかるのも年齢のせいだけで無く、自分で自分のことも出来なくなった苛立ちだと思う」
母に電話する前に、義子に電話した時の義子の言葉だ。
テーブルをはさんで聞いていた妻に、明日土曜日は休みだから、明日また田舎に電話してみるよと言った。母の事は妻とはまた結論の出ないままだ。壁時計は八時を指している。田舎にある母はそろそろ床に就く準備だろう。智兄は寝ているだろう。
到着を告げるアナウンスが流れると私の気持ちも騒いだ。姉が連絡を寄越したやまびこ四十六号八号車十一番Aを頭に浮かべた。大宮駅午後二時五十八分着。タラップから降りて来る乗客に目を凝らした。
乗降する客の姿も途切れた。しかし、発射のベルが鳴り出したのに母の姿が見えない。慌てて車両に飛び乗ると、中の開閉ドア口に母が居た。左手に小さな手荷物を持ち右手に杖を突いた母だ。私の顔を見ると笑みを見せる。杖を受け取り、車体のドアの開閉に間に合うことを祈りながら右手を引いてホームに降りた。冷や汗が出た。
姉が気配りしたのだろう厚手のコートにマフラーをして新調したらしいズボン、靴を履いている立姿を確認すると、ほっとした。白髪が増え、背中が少し丸くなった母をホームのベンチに一旦座らせて、母に会えた、これから帰ると義子に連絡を入れた。
大宮駅から埼京線の浮間舟渡駅に回り、タクシーを利用した。高島平の団地に着くと、母は驚きの声を上げた。
「こんなに建物だらけで、皆居んの(皆住んでいるの)?」
十一月も中旬になる。薄暗くなり始めた周りに街灯がつき出していた。団地の中に居並ぶ商店の明かりが表に漏れ、夕方の買い物に出た人混みに威勢の良い店員の声が混じる。
「そうだよ、皆利用されている。賃貸住宅と分譲住宅とを合わせて一万世帯が住んでいる」
十階を超す高層住宅の林立を見上げ、見回す母だった。
「義子んとこ(処)は十一階。母ちゃんが来ると決まってから慌てて引っ越したんだ。それまで単身者用に住んでいたからね。でも、すぐに手配が出来て良かったよ」
「高いんだべな。なんぼ(幾ら)払ってんだべ?」
笑ってごまかした。聞けば、二DK月十一万円の賃貸料に目をむくだろう。何故か九月半ば過ぎに新宿駅西口に抜けるトンネルの入り口で見た黒い蝙蝠傘を思い出した。
「右が偶数階、左が奇数の階に停まる。義子の処にはこのボタンを押す」
母にエレベーターの使い方を教えた。
「これが押しボタン。チャイムだ。来客を伝える」
そう説明するうちに、内側から玄関ドアが開いた。
「良く来たね。一人で行くからって久美子姉ちゃんから連絡あって心配したよ。でも良かった。無事に会えて」
「話すのはまず中に入ってからだ」
義子の言葉を遮り、母の背をそっと押した。後ろで鍵を閉めると母は音に反応して、田舎じゃ玄関も開けっ放し、鍵もろくにかけもしないと言う。
義子が手伝ってコートを脱ぎ、小荷物を置いた母は六畳の和室に立ったまま困った顔をした。堀炬燵に足を入れている田舎と違った。目の前にあるのはテーブルに掛け布団の炬燵に座布団だ。左足の不自由な母がそのまま座れるハズもなかった。
義子は母のためにと背もたれがあり回転機能の付いた座敷用の椅子を用意していた。座高が二十五センチだという。
「座ってみて。ここが母ちゃんの部屋で南向。ベランダに出られるよ。狭いけど炬燵をそのままにしておいても押し入れとの間に布団は敷けるよ。
枕の方にタンスを買って置いた。入れるところが足りなかったらまた買うけど、取り合えず使ってね。隣の洋間六畳が私の部屋、寝室。洋服ダンスとか鏡台があるから狭いけど、今日は我慢して寝物語に母ちゃんと一緒に寝ようか?」
「仁志はどうすんだ?」
「うん。夕食をここで一緒に食べたら少しして帰る。それよりも、どう?この部屋で?。俺ん所に来ても良かったのに」
母は少しばかり首を横に振る。
「部屋は贅沢言わ無ャ。だども、足がいうこときか無ャ」
「そうだね。俺も今そう思った。義子がせっかく専用の椅子を用意したけど、それはそれで使うとしても、普段はこっちのキッチンテーブルの前にもっと柔らかいというか、腰に負担のかからない椅子を買ってきてテーブルを前に座っている方が良いかもね。
テレビの向きもこっちにした方が良いかも。炬燵よりもあのエアコンを使っていつも部屋を暖めておいた方が良いね」
とりあえず、母に目の前のキッチンテーブルの前にあった木製の椅子に座ってもらった。仕事をしている義子が出かけて母が一人で一日中留守番をする。母が長居のできる姿勢、暖かい部屋の確保、それを想像して三人で話し合った。
母が使う和室とダイニングキッチンとの間にあるフラッシュ戸を普段から開けっ放しにしてキッチンテーブルの前の椅子を一つ買い替えることにした。
購入費用を私が出すと言ったけど義子が自分で出すと言う。団地の賃貸料もタンス等母のために用意した物の経費も妹の出費だった。金目のことをあまり気にもしていなかった自分に気づいて、申し訳ないと言った。
「銭子ば俺が出す。なんぼ(幾ら)かかっぺ(かかる)?」
「良いの、良いの。私が出せないようだったら仁志ちゃんに頼むから。母ちゃんは良い」
「親子だって世話になるんだ。俺のために掛かる金ば(は)俺が出す。食費に部屋代の一部は俺が出すべ」
「母ちゃん。着いたばかりでそんな話、心配すること無いから。俺と義子に任せておけって。医療費とか介護費とか、ここでもいずれ掛かるようになったらその分母ちゃんの年金とか貯金を使わせて貰うことになるかもしれないけど今は良いよ」
「貯金ば(は)六百万程あった。どうなっか(なるか)分がら無ャがら、半分こす(し)て智の郵便預金通帳に三百万円ば(を)入れで来だ」
母が長い間に少しずつ貯えたお金だったろう。母が亡くなった後に智兄が困らないようにと孝一兄や私の仕送りにも手を付けずに貯金していると言った本家の叔母の言葉を思い出した。
「ありがとう。それだけでも智兄にとって良いことだよ。久美子姉ちゃんはそのこと知ってんの?」
「久美子には智の農協の通帳に五十万円残っている。他人の冠婚葬祭とかで必要があったらそごがら使えと言ってきだ。
智の掛かった医療費の還付金もその農協の通帳に入る。障害者年金ばゆうちょ銀行に入っぺ。そこから毎月の電気代とか電話代、水道代とかが引がれるど言ってきだ。
手続きしてきたから通帳を見たら分かん(る)べ。それも言って(伝えて)きだ」
それだけ言うと、義子の淹れたお茶に手を出して母はやっと一息ついたような顔をした。「少ししたら、夕食だね。今日は歓迎のためと思ってすき焼きを用意したの。母ちゃんも好きでしょ。柔らかい肉を奮発しておいたから一杯食べてね」
母を迎えて明らかに義子は興奮を覚えている。