「戻って来無ャがら、如何す(し)たのがと思った。もう十二時過ぎだよ。俺達は先に食べたよ。お昼にすっぺ(するでしょう)?」
「うん、食べる」
「冷や麦だけど、良いが?」
「ああ、それで良い」
「汁は温かい方?、冷てャ(冷たい)方?。俺達は母ちゃんの事もあっ(る)から温かい方にす(し)た」
「温かい方で良い」
山を下りてきただけとはいえ強い陽射しの中で汗を掻いてきたばかりだ。本当は冷たい方が良いと思ったけど、つけ汁を冷やすのにはまた時間が掛かるだろう。
食事を食事を終え、少し休んで午後一時にちょっと前だった。
「自家用車準備できたよ。行くべ」
「せっかくだ、母ちゃん、兄ちゃんも行くべ(行こう)?」
そう誘って自分でも可笑しくなった。いつの間にかズーズー弁に戻っている。
「昨日も言ったべ。前に見で来たから良え(良い)」
「兄貴は?」
返事がない。テレビの高校野球に目は行っていたけど、一人ぶつぶつ言い、時折声にしてハハハと一人笑いをする。自分一人の世界に入っている。これが何十年と続く兄の病気の症状の一つだ。姉と二人だけで出かけることにした。
「いくら遅くなっても四時前には帰って来っ(る)がら」
母に向かって言う姉の言葉がその後の夕食の支度にかかる時間なのだろう。見学にかけることのできる時間の限界なのだろう。
キリシタン公園までは二十分くらいのものだった。炎天下に焼かれて光るアスファルトの田舎道を走る車は少なく、途中、時折に行き交った車は県境らしく仙台方面や気仙沼方面から来る物流のためのトラックだった。視界に入る田んぼは緑濃い稲穂を見せていた。畑は赤いトマト、紫濃いナス、緑のキュウリ、枝豆の畝が続いていた。車道の傍を流れる小川が時折、垣間見えた。
キリシタン公園に着くまでの間にも、ここが首を曝された所、ここが刑場、あっちが踏み絵で試された所、向こうに隠れ礼拝所だった洞窟がある、と大籠地区に入ると姉の説明がついた。来る道の途中の大籠カトリック教会の前では一旦自家用車を止め外観を見たけど、殆どを通過して公園まで来た。
県道から外れ左に舗装された坂道に入ると、間もなく右に藤沢町郷土文化保存伝習館があり、左に大籠キリシタン殉教公園があった。伝習館の先にあった駐車場に自家用車を停めた。先に駐車していた車は二台しかない。昨夜の野焼き祭り会場に来た人達はどうしたんだろう。他県から来た人も町に宿をとった人も居るだろうに何故ここに寄らないんだろう。時間がないのかPR不足なのか、関心がないのか、そんなことを思いながら殉教公園の庭に足を踏み入れた。
「向こうに資料館があるよ」
姉の言葉が後ろから掛かる。しかし、私はコンクリートで囲まれて滾々と沸く透き通った水の真ん中の台座に建つ母子像に目が行った。母親は両手を伸ばし向かい合う形で幼子を抱え上げ見つめ微笑んでいる。レリーフには聖なる泉とあり、母子像は土屋瑞穂作とある。こんな立派なものが出来たんだ。四十年前の高校生時代に触れることもなかった芸術作品だ。
キリシタン資料館はその母子像の後ろになる。入館料三百円を払って入ると展示室がすぐだった。展示パネルを見始めると入館券のもぎりをしていた係員に後ろから声を掛けられた。
「大籠にキリスト教が伝わった歴史、布教から殉教に至るまでの出来事をまとめた映像があっぺし(あるので)、是非先に見てけろ(見て下さい)」
前にも後にも私と姉以外見学者が見当たらない。姉と顔を見合わせると係員は是非にとまた勧める。
高校生の頃、大籠の切支丹に掛かる遺物や史跡が発見されたと当時の新聞でも話題になった。殉教者が多くいたという伝承を耳にした。そのことを思い出し、それらがどのように整理されたのかされているのか、関心が湧いた。時を急ぐ身でも無い。姉を誘い三十席ぐらいの映像ホールに二人だけの視聴者になった。
十五分ほどの映像だった。藤沢町が岩手県南に位置すると紹介から始まり、昭和二十年代の後半に隣の宮城県の県史編纂委員の方が宮城県北を実地調査して岩手県南に跨がるキリシタンの歴史を新聞、テレビ等に紹介して大籠の隠れキリシタンが世に知られることになったと伝える。
鎌倉時代から十七代四百年続いた葛西一族、その一族が千五百年代の終わりに所領としていた宮城県北と岩手県南に製鉄技術を備中岡山から誘致したのがキリスト教伝播のキッカケであったらしい。伊達藩以前と説明が付く。藤沢町周辺へのキリシタン伝来は鉄とともに有り、たたら製鉄生産の炯屋に働く人々を中心に普及して行ったと語る。
葛西一族が天下平定を図る豊臣秀吉の奥州仕置きで領地を没収され没落した。葛西領が伊達政宗の領内になると製鉄産業が一層盛んになり、そこに働く人も増えたという。鋤、鍬、鎌など農作業に掛かる鉄製品に鉄砲や刀などの製造に鉄は必要だった。藤沢町に炯屋八人衆と呼ばれた生産者と生産高の当時の記録が今も残っていると伝える。
人皆神の前に平等、人を愛せよ隣人を愛せよの教えは当時の人々に取ってカルチャーショックであり、貧富や身分に関係無く信者が増えたのは当然だったろう。豊臣秀吉の伴天連追放令(天正十五年、一五八七年)があっても、徳川幕府の禁教令(慶長十七年、一六一二年)があっても伊達藩は緩やかな取り締まりをしてきたと説明する。
しかし、三代将軍徳川家光誕生以後キリスト教に対する弾圧が強まったと伝える。寛永十六年、一六三九年以降、僅か数年で大籠地区でも三百余人の信者が処刑された、その記録があると言う。
昭和になって、踏み絵に依ってキリシタンかどうかを検問したという台転場や、首実検をしたという跡、複数の刑場、殉教者の首を曝したというハセ場の跡、埋葬した首塚などが次々と明らかになったと史跡を紹介する。隠れキリシタンの礼拝所となっていた洞窟は昭和四十八年に発見されたと伝える。
高校を卒業した昭和四十一年三月にはどういう経過で大籠地区にキリスト教が布教されたのか、それを説明する物は何も無かった。また映像で紹介しているような史跡は整備されていなかった。私には映像を見る価値は十分にあった。
俄知識を持って資料展示室を見た。収蔵されている位牌の中のマリア像や髪の毛を結ぶリボンを十字架にした聖徳太子像の掛け軸に驚いた。刀の鍔に十字を刻んだものもある。禁教の弾圧の中でも信仰を続けようとする当時の人々の遺物の展示が目を引いた。
展示パネルは、東北地方にキリスト教が伝わった歴史と布教、そして迫害、殉教に至るまでを写真とイラストで解説していた。その中で私の関心を引いたのはパネルの間に置かれた宣教師の装束と孫右衛門にかかる話だ。日本史の教科書や博物館で四百年前のいくつかの南蛮図を見たことがあるけど、黒い服、腰に巻いた細紐、その当時の宣教師の装束が飾られていた。
伴天連追放令のために彼は長崎から船で出て山形県の酒田港に逃れ、そこから仙台を経て大籠に辿り着いたらしい。孫右衛門は名前を変え十九年もの間この大籠の地で布教したスペイン人のフランシスコ・バラヤス神父とある。
寛永十六年(一六四〇年)についに彼は捕えられ、江戸に送られて戸塚刑場で火あぶりの刑により露となったと伝えている。
寛永年間の長崎の島原の乱(一六三七年十月~一六三八年二月、犠牲者八千人とか)の他に三百人を越える殉教者を出した地域はこの大籠以外に聞いたことがない。宗門改帳の展示が側に続いていた。