今日は彼のほうからの誘いだったけど、私のほうから話を切り出した。差し向かいで席を取った染谷課長の頭髪も大分薄い。両方のもみあげの辺りに白いものが混じっている。

「生活相談員の竹山君。彼が十五号室の佐藤巳代治さんのことで昨日の夕方相談に来ました。来週の土日か、その次の土日の一日で天気の良い日に佐藤さんが育ったという故郷の福島県いわき市に日帰りで連れて行きたいと言っています。それで、代休は要らないけど、施設の車で出かけることを許可して欲しいと言ってきました。

 佐藤さんはあの通り膀胱がんの末期症状ですからね。医者の診断では余命二ヶ月持てばと言っていますが、いつ容態が急変しても可笑しくないと思います。体はもう自由にならないけど頭はしっかりしていますね。最近はしきりに育った田舎のことを話し、生きている間に墓参りをしたい、一度帰ってみたいと言っているのだそうです。

 佐藤さんは故郷を離れて七十余年になるそうです。一人っ子で大事に育てられ二十代ぐらいまではそれでも田舎に帰ったこともあるそうですが、若いから仕事も遊びも面白くなって故郷が遠くなった、結婚もせず、仕事も住居も転々として父母がいつ亡くなったのかも分かっていないのだそうです。八十五(歳)に成る今になって、しきりに故郷に帰りたい、お墓参りをしたいと言っているのだそうです。

 K市の福祉事務所を通じて二年前に入所しています。生活保護を受けていますね。竹山君は相談を聞いてるうちに身寄りも無い見舞いに来る人も居ない佐藤さんの最後の願いに同情したのでしょう。車椅子生活の佐藤さんの移動には福祉車両が欠かせません」

「それで竹山君の申し出に如何(どう)応えるつもりなの?」

 結論を何時も私に委ねがちな課長に、先に聞いた。

「彼の意向に沿って、許可しようと思っています」

「そういうことか」

 私は野菜サラダを小皿に取り分けたけど、そのままにして答えた。

「入所者の一人一人に同情して対応していたら、いくら体が合っても身が持たない。そればかりか他の入所者やその家族が耳にすれば、私の要望も聞き入れてくれとなる。どんな要望を突きつけられるか分からない。また車は施設のものだ。勤務を要しない日に車を持ち出して仮に事故を起こしたらどうなる。彼自身の将来のためにならないし、君も、私も責任を免れない」

「それは私も考えたのですが・・・」

「まあ、少し飲みなが考えてみよう」

 私は本来事務職だ。だけど、福祉事業に長年関わってきた実務経験から人事当局が考慮して今の施設長になっている。自分がまだヒラの職員の時にも似たようなことがあったなと考ていた。ジョッキーを半分ほど開けてから言った。

何故(なぜ)土日なのかな?。平日はダメなの?」

「平日だと、いつもの仕事が有って職場を離れる余裕が無いと言うことだと思います。彼の普段の仕事ぶりを見ていると、そのように思います」

「うん。そうだとすると勤務日の変更手続きを取った方が良いね。天気予報を見て福島に行く日を決め、その出かける日を竹山君の勤務日に変更する。休日出勤だから代替休日を取るようにする。代替休日の日に予定している仕事を何日かに分けて分散し、消化する。福祉車両を動かすのも彼の業務のうちだから福島に運転していくのを認める。運行記録日誌もちゃんと記録する。つまり通常の業務に扱う。

 施設サービスの領域を超えているとしてガソリン代や高速料金が後で業務監査で不適正支出の指摘を受けるかもしれない。私と君が業務指示命令を出した事になるから私達が始末書を書かされて済むか、賠償、つまり返還命令を受けるかも知れない。その覚悟は要るね」

 組織内の業務監査は監査担当職員の数の割に出先事業所の数が多く、二、三年に一度の割合で行われている。染谷課長を脅した訳では無い。職員の行動を支持するとしてどんな方法が考えられるのか、あるのか、竹山君の事を思った。

 染谷課長はしばらく考える仕草になった。ビールの味は何時もと変わりない。酒にしよう、そういうと彼の返事も待たずに酒を注文した。

「私も後二、三年で定年だよ。人事の紙一つで経験した職場は十数箇所になる。私も行く先々で昔からの仕事の慣習を理不尽に思い、改善の意見や提案を言い行動もした。また良いと思うことを、それがために何が問題になるかを余り考えずに行動に出た。この年齢(とし)になって今思うと、それは当時の係長や課長をハラハラさせた事だったろう。

 竹山君に許可を与えるにも組織の規則、決まり事はしっかりと認識させる事だね。ところで、君の夏休みの予定はどうなっている?」

 染谷課長の表情は堅いままだ。

「次年度予算の現場の積み上げ、書類提出は本庁に八月二十日までとなっています。庶務課長には八月十五日までに介護課の分の予算案を出すよう指示されています。ご存じの通り施設長とのヒヤリング、見積もりの確定がその後に成りますね。それが終わって、私達に直接には関係が有りませんけど秋の議会が始まる前の一週間、八月末にまとめて休みを取らせていただきます」

「相変わらず次年度予算の積算が夏場に始まるね。庶務課長がいつも旧盆に合わせて休暇を取れないとボヤいていた。彼は確か秋田県出身だったかな。本庁の財務当局がまとめた予算案がマスコミに乗るのは年末、あるいは年明けだけど、我々の作業はいつもこの時期だ。一般の人が聞いたら驚くよね。

 私の方は八月の六日から十日まで土日を挟んで取らせて貰うよ。十日は火曜日だ。庶務課長は今月の三十日金曜日から八月四日まで休む予定となっている。家族で海に出かけるとか言っていたね。あんたも家族サービスはしておいた方が良いよ」

 硬い表情を見せていた課長も少しばかり和らいだ顔になった。

 

「お待ち遠様」

 目の前で注文した升酒がなみなみと注がれる。

「お久しぶりですね」

 一升瓶を抱えた店主が言う。白い割烹着に腰から下に麻で出来た紺の前掛けをしている。頭髪が薄く白髪頭になっているけど、何十年と変わりないスタイルだ。

「いつも客が一杯で商売繁盛。良いね」

「ええ、皆さんにご贔屓いただいて、有り難く思っています」

「夜は十時で締めるようになったと聞いたけど、そうなの?」

「はい。年齢(とし)が年齢だけに立ち仕事も夜遅くなるのも辛くなってきましたね。あと少し頑張るつもりですけどね」

 春駒の営業時間が変わったと職場で耳にしていた私は時間を聞いただけなのに、八十近い店主は店仕舞いが近いことを臭わせた。今の職場に戻って再びこの店を覗くようになったけど、春駒は私がまだ独身の頃にも仲間と連れだって何度も通った小料理屋だ。三十年来の付き合いと言うことになる。

「私も(ばあ)(さま)年齢(とし)ですからね。なに、此処が終わったら故郷の福島に帰ろうと思っています。あっちには弟妹も親戚も居るし、婆様も私の田舎の隣町出身ですからね。年齢(とし)とって帰りたいって里心が付いたんでしょ。私はそれ程でも無いンですけど、一緒に苦労してきたばあ様の言う通りにしてやっ(る)かと思いましてね。女房孝行ですよ」

 カウンターの中に戻っていく店主の後ろ姿に、さっきまで自分達の話の中にいた佐藤己代治さんを思った。同じ福島出身か。年齢(とし)の差は多少あるけど佐藤さんとほぼ同じ時代を生きてきた店主はある意味、田舎に凱旋するようにも思える。

 そう思いながら、どんな人生が有ったにせよ、人を他人と比較してはいけないなと自分に改めて言い聞かせた。カウンターの方に目を向けると、すっかり白髪の増えた女将さんがこっちを向いて微笑み軽く会釈をして寄越した。