日常的に変化の少ない閉鎖的な田舎の社会にあって兄の病気の症状はたちまち近隣の人々の話題になった。兄は悪いことをした訳でも無いのに、人々は一言に精神病患者と指さし何かと白い目で見るようになった。

 

 兄が治療のために病院通いをするようになって約二ヶ月、年の暮れも押し迫った十二月のある日曜日に、兄は勤めていた会社に戻ると言い、住んでいた埼玉県狭山市に帰ると言いだした。通院の他には気分転換に時折外出する程度だったが、内気で大人しい気質の兄にとって周りの人々の目が耐えられなかったのかも知れない。

 父母が父母が会社の配慮によって病気休暇届の手続きをしてあること、治療優先が大切なこと、まだ症状が回復していないと説得しても聞くものでは無かった。母は泣き出し、父はオロオロして、私を含め家族で引き留めるのに家中大騒ぎだった。

 

 翌日、兄は家出した。父母が木炭用の木や炭窯に焚く雑木の切り出しの山仕事に出かけ、私や妹弟が学校に行っている留守中の出来事だった。学校から先に家に帰っていた妹と弟が前日の騒ぎもあって私が高校から帰るとすぐ兄が居ないことを告げた。冬の暗闇の訪れは早い。夕方四時を回ったばかりだったが辺りは真っ暗だった。私が二階に上がってみると何時も兄が床の間近くの畳の上に置いていたボストンバッグが見当たらず幾つかの小荷物も無くなっていた。

 私は当時、この二階の床の間のある十二畳の畳の部屋を占有していた。襖を開ければ隣りにもう一つの十畳の和室があるが、その部屋の大半は離婚して戻ってきた姉の荷物で占められていた。兄が帰郷してからの二ヶ月余りは十二畳の部屋に私と兄が床を離して一緒に寝起きしていた。元々この部屋は私の前は智兄が一人で使っていたもので、部屋の東側に面して置いてある文机や本箱は兄から引き継いだ物だった。父母と妹弟は普段一階で寝起きしていた。

 

 一階に戻って土間の玄関口を見ると、帰省してきた時に兄が履いていた革靴が無かった。慌てて一関の次兄(あに)と久美子姉に電話を入れ駅前店に寄っていないか当たってみたが、来ていないという。外を見ると雪が舞い始めていた。寒さが広がる中を兄は何処へ行ったのだろう。あの時、捉えどころの無い不安が()ぎったのを私は今も覚えている。腹が減ったという弟の声に我に還って、(いもうと)(おとうと)には卵焼きとソーセージ、漬け物に朝の味噌汁の残りで夕食を済まさせた事も記憶している。

 

 父母が帰ってきたのは午後七時頃だった。あの時期に炭焼き小屋に入ると、店に並べる商品を多くしたいために重さ十五キロの炭俵を父は二俵、母も一俵を背に担いで三キロもの山道を帰ってくる。頭にも炭俵の上にも雪が積もっていた。通りに面した軒先で雪を払う父母の姿を見ると兄がいなくなったことを告げるのも悲しくなった。

 父母とのその後の小一時間は夕食も摂らずに居間で兄を心配し、所持金を持って出たのか、兄の勤務先に電話してアパートに戻っているか確認して貰うか、今すぐ警察へ捜索願を出すかどうかに終始した。突然、通りに面した表のガラス戸が開いて兄が帰って来た。 

 兄は家の中に入ると、心配している三人の横を通ってそのまま次の座敷を通り二階に上がっていく。母が思い直したように食事はと声を掛けたが返事は無い。

 私が様子を見てくることにして二階の部屋に入ると、薄明かりの中、兄は敷きっぱなしだった床の中に既に横になっていた。母が言ったように食事はと声を掛けると、要らないと小さな声が返ってきた。私はそれ以上声を掛けても無駄に感じて階下に降りた。

「もう床に入っている。食事は要らないって」

 父母に伝え、殊更声を大きくして腹減った、ご飯食べようと空元気の声を出した。母は二階へ行こうとしたが、父が母の袖を引き、首を横に振って止めた。

 

 その事があって迎えた正月だったが、例年と変わりない賑やかな正月だった。正月料理は全て母が作る手料理で、今思うと随分と手間がかかったはずである。たった一人の手で年末の四日間ほど掛ける。きめの細かい手ぬぐいで作った袋に煮た小豆を入れて潰し漉し餡を作ることから始まり、ニシンの昆布巻き、キンピラ、蓮根、人参、里芋、椎茸、蒟蒻等の入る煮しめ、ぶりと烏賊(いか)と大根の煮物、黒豆の砂糖煮、厚焼き玉子など日持ちの効く物を先に作る。大晦日には餅米を蒸して父と餅をつき、魚屋からマグロの刺身等を購入し、雑煮を作る準備をして元旦を迎える。私や妹、弟は買い物や餅つきを手伝った。

 

 元旦の朝、母は作り置きの料理に自家製の白菜や沢庵の漬け物を添えるが、子供の私や妹弟にとって楽しかったのは色んな種類の餅を作り、並べ、食べる事だった。母がいつもその準備をしてくれていた。母の作るあん餅(お汁粉)、鳥モモや大根人参牛蒡に凍み豆腐油揚げが入った雑煮の外に、子供達の手でクルミ餅、じゅうね餅、納豆餅、きな粉餅、おろし餅を作った。大晦日にNHKの紅白歌合戦を見るのが恒例で、誰もが除夜の鐘を聞いて床に就くため元旦の朝はいつもより遅い朝食になる。

 

 その午前十時頃に一関駅前で男性専科の洋服店を営む次兄夫婦が小学校に上がる前の子供二人を連れて新年の挨拶に来るのが通例だった。久美子姉も付いてくる。司法試験の受験勉強中だった長兄や就職した三番目の姉が東京から帰省しなかったとしても、父母と家に残っている私や妹、弟に次兄達が揃った所で正月の初食卓を囲んだ。

 二階の部屋に閉じこもりきりだった智兄も言葉は無かったが一緒に食卓に加わった。居間だけでは狭く、仕切りの障子を開けて隣の十畳の畳の部屋にも臨時に飯台を並べた。食事が終わればその畳の部屋は真ん中に電気炬燵を据えて、トランプや人生ゲーム、福笑い、百人一首の坊主めくりに興じる子供の遊び場だった。疲れれば襖を開けて仏壇のある六畳間に横になる。

 次兄達は大晦日も夜七時頃までは店を開いていた。また正月も二日からの大売り出しで泊まっていくことは無かった。しかし、元日一日でも親兄弟が集まり正月を祝える、私にはその嬉しかった記憶がある。

 

 しかし、その良い記憶だけでは無い。藤沢の町は位置的には太平洋側に近い方にあり、北上山脈に守られて雪がそれほど多く降る地域では無い。しかし寒さは東北地方そのものだ。正月も過ぎると昼日中でも氷点下の日が続き、時には朝の冷え込みがマイナス十度にもなる。私が今住んでいる所沢と違って、小学も中学も高校も学校の冬休みは毎年一月二十日頃まで約一ヶ月ある。

 学校が始まって二日、その日も時間割表を確認し鞄に必要な教科書等を入れて登校した。二時限目の国語の時間の途中、教室に来た事務職員と先生が出入り口で何やら話し、振り返った先生と目があった。私を呼び、至急事務室に行って電話に出るようにとの事だった。 

 受話器の向こうの母は何も理由を言わず、すぐに家に帰れと声が震えていた。訳も分からず早退の手続きをして家に帰ると、家の前に県立病院の名前が入ったライトバンが停まっていた。何が有ったのかと思いながら家の中に入った。

「二階に上がれ」

言う母の先に立って二階に上がると、白衣を着た医者と看護婦の姿が開け放たれた部屋の先に見えた。青白い顔をした兄が布団の中に横たわっていた。医者と兄の頭の間に置かれた金属製の洗面器には嘔吐物らしき黄濁した物が入っていた。濡れた白いタオルがその端に掛っていた。後ろから母に背中を押されて兄の布団を間に医者と向かい合って座った。 

「隣で、気づかなかったか?」

母の言葉に振り返って見ながら、首を縦に振った。一通りの処置が終わった所らしい。眼鏡を掛けている医者が母と私の方を向いて言った。

「胃を洗浄したからもう大丈夫。安静を保つように、しばらくは目を離さないよう」

 私は学校から家に着くまでの間は何が有ったのか気持ちが急いたが、目の前に昏々と眠る兄の姿を見て妙に深くいい知れない谷に落ち込んだ気持ちに成った。頭は妙に冴えた感じになった。どうしてこうなったのか、必死に考えた覚えがある。

 

 兄の自殺未遂はショックだった。同じ部屋に寝起きしていた私は学生服に着替えたあの朝も布団を被って寝ている智兄をさして気にも止めなかった。暮れの騒動があっても兄の素行を監視しなければという気持ちは勿論無かった。

 何時、何処で睡眠薬を入手したのだろう。兄が居ないと心配し帰りが遅かった日に何処かで入手してきたのだろうか。あの頃は今と違って携帯電話など無い。母は、山仕事に出かけた父に連絡の取りようも無かった。頼れるのは私しかいないと咄嗟に判断して私の通う高校に連絡を寄越したのだった。

 

 母は、その一年後に私が東京に就職して生家を離れても、二年後に父が急死しても、妹と弟がやがて地元の高校を卒業して故郷を離れても、頼りにした次兄が平成三年に五十五歳の若さで喘息をこじらせ救急車で病院に搬送される途中に死んでも、ズーットこの先、この智兄と一緒に人生を歩む事になった。