小母が続けた。
「どこも娘息子が都会に出て戻ってこないんだもの、この辺りでも老老介護が当たり前になってきてんだよ。配偶者の片方が寝込んだら気の毒だー。週に何回か介護士の手を借りでも、もう一人のお年寄りが食事の介助、排便の介助、入浴介助をしなければなんねャのしャ。長く続けられる訳が無ャあ。
ます(し)てや爺ちゃん亡くして婆ちゃんの一人世帯があっちもこっちもだー。困ったもんだよー。生活費だってかかるすぺ(でしょ)。農業続けられなくて年金に頼るしかねャ人も多ぐなった。だげどその年金だってこの辺では国民年金、一月五万円あっか無ャがの婆ちゃんが多いんでがす。
この間テレビ見てたら、 どっかの政治家が自己責任だって言ってたべ。今になって年寄りに自己責任だなんて、よくもまあ、そったなごど言えたもんだよ。今の年寄りは皆な戦中戦後のどさくさを経験して苦労して生きてきた人達だよ。こんな田舎でも何(なん)ぼかは高度経済成長を支えて国の復興に貢献してきたべに。
仁志さんも年金課長してたことあるって言ってたべ。年金だけで暮らせ無ャ(無い)の分かるっしょ」
私は思わず頷いた。十年前の二年間、私は管理職なりたてで派遣され区役所の国民年金課長を経験した。その時に東京都でも国民年金の一人一月当たりの給付額平均は五万二、三千円、厚生年金は一人一月当たり給付額平均が男性約十六万、女性約十万円だと知った。
夫婦が共に国民年金給付の対象だとして、その受給月額は合わせて十一万円にならない。そこから二人分の介護保険料を天引きされると二人の受取月額は九万円あるかないかなのだ。更にその年金から世帯主が国民健康保険料も年額二十数万円支払わなければならない。高齢者は何らかの疾病を抱え医療費がかかる。更にアパート暮らし等で家賃を払わねばならない状況だったらどうなる。年金行政の担当者になって、初めてそういう切実な問題があると具体的に知った。
国民年金も厚生年金も給付額平均は十年前と大して変わっていない。今は介護施設の管理者になって年金行政の担当では無いけど、年金だけでは暮らせないという高齢者の実態にやり場の無い怒りを今も引きづっている。
「伯母ちゃんは、たいしたもんだよ。八十八になっぺよ(なるでしょう)。あの年齢で、国民年金と厚生年金合わせて月に七万なんぼが(いくらか)あるって言ってた。伯父が亡くなって、なじょすべ(どうしよう)って。生活を維持していぐのにどうしようって。それが五十二だべが、三だベが、その年齢
から鳥一に勤めるようになって七十の年齢まで働いたんだもの。この辺では、ズーっと会社勤めだった人、公務員だった人を除ぐど年金をそんなに貰える爺ちゃん婆ちゃんは居無ャ。
伯母ちゃんは、鳥一が出来たときの最初から正社員で勤めるようになったし、後に続く人達に鳥の捌き方や串刺しの作り方を教えるようになったんだがら相当頑張ったんだべな。」
小母の言葉を聞きながら、何年前だろう、私が帰省したときに母は七十まで働いてけろ(下さい)って会社から言われた、と喜んでいた事を思い出した。
「孝一さんも仁志さんも何十年と盆暮れに仕送りしてるでしょ。そのお金、自分が死んでしまったらって、伯母ちゃん、智ちゃんの後々の為に手を付けないで貯金してるって言ってだ。」
私は思わず、えっ、と声が出た。兄弟の中でも仕送りをしているのは長兄だと母に聞かされたことはあるが、それをそのまま、時折の私の仕送りの分も含めて貯金しているとは私の知らないことだ。
母は、父の一生をかけて得た家と僅かな畑と山林を今も守っていた。田んぼも有ったが、年齢と共に耕作が困難になって親類に譲っている。また山林も工務店を営む親類に管理を委ねている。今は住む家に母と精神科の入退院を繰り返している三男の智兄だけが暮らしている。
家から裏山の小道に出て二百メートルほど歩いた先に三畝程の小さな畑がある。母は今もそこに食べるに必要な野菜を育て好きな花を植えていた。気晴らしにもボケ防止にもなる、出来た野菜や摘んだ花をあげると喜んで貰えると、隣近所との関係を口にしていた。
智兄は私と三つ違いで今年六十歳になる。二十歳の時から精神病院の入退院を繰り返し、一人自分の意識世界に入り込み閉じこもると周りに誰が居ようがお構いなしに延々と独り言を吐き、時々大きな声で場違いに笑い声を出す。この奇異な行動は凡そ四十年少しも変わらない。
智兄は私と同じ地元の県立高校を卒業して当時埼玉県狭山市にあった電電公社に就職した。今のNTTの前身の一つの支社と言った方が今の人には分かりやすいだろう。
就職と同時にアパート生活を始めたということだが、兄の気質からは仕事上の悩みを誰にも言えず、また不慣れな自炊生活など環境の変化に耐えきれずいつか妄想だけが兄の頭を支配していったらしい。私が高校二年の秋十月、兄が突然帰郷し、父も母も意外な思いで迎えた。兄は訳の分からないことを早口に言い、何がどうしたのかを聞いても会話が成り立たなかった。職場の事を言っているらしいが、関連性の無い父母や私、妹弟には理解出来なかった。
翌日、職場の課長だという方から電話があったのを覚えている。母が電話口に出ると、ここのところ心身が疲れているようだから休養したらとアドバイスしたが昨日から連絡無く出勤していない。心配でアパートに行ってみたが居なかった。職員名簿から連絡先を確かめて電話してみたと言う。その事から兄の言動が職場でも可笑しいことが窺われ、電話の先の課長は所在が分かって安心しましたと言った。そして病院の精神科受診を強く勧めた。
母が付き添い一関市内にある県立の精神科専門病院の診察を受けると、兄は精神分裂症との診断だった。その病名に異常さが窺われ、人によっては大きな偏見と誤解を招く忌み嫌われる響きがある。疾病の対応方法を知らない父母も私も驚くばかりだった。
後年、病名に異議を唱える精神科医や関係者が現れ病名が総合失調症と変更されたことは良いことだ。厚生労働省の調査では、総合失調症の発症年齢は思春期から三十歳までで七、八十パーセントを占め、発症者の平均年齢は男性二十七、女性三十歳となっている。しかも、発症は人口の約一パーセント、つまり百人に一人の割合であり、有病率から推測すると喘息患者と同じくらいいて珍しい病気では無いという。症状として存在しない人の声が聞こえる幻聴や、周りで自分の悪口を言われていると思い込む被害妄想が出ると言われている。話すことが支離滅裂で会話が成立しなくなることや、話の最中に関連性の無い話題に話が飛び辻褄が合わない事を口にするようになる。
智兄の症状はまさにそれだった。発症の引き金は就職や転居、結婚、子育て、親の離婚等これまでの生活が変わる、変えざるをえないライフイベントによるストレスが大きいとされる。兄の就職は仕事内容や対人関係、アパートでの自炊生活などが自分の心と頭に受入れられる許容範囲を超えていたという事なのだろう。
精神科医の説明を聞いてきた母の話を聞いて病名も症状も分かったが、治療方法があるのか兄が元に戻るのか、当時、高校生の私はそれが一番気になった。母は病気の特性や要因について医師から一通りの説明を受けた後、とにかく休養させ話相手となって心の落ち着きを取り戻せるようにすること、それには家族の協力が必要と指示を受け抗精神病薬のリスペリドンを貰って来たのを覚えている。治療法には薬の投与による薬物療法と社会性や生活機能を取り戻すためのリハビリテーションプログラムによる心理社会的療法があると言うが、兄にリハビリはまだ先のことだった。