私は中学から高校に上がる頃に母が私に語った話を思い出した。

「お前の年齢(とし)(おら)は働いでいだ。長女だった俺は昭和五年、十四の年齢(とし)から東京の墨田区にある紡績工場の女工として働いだ。約十一年、戦前も戦中も父母や四人弟妹の生活費の仕送りを続げだ。それでも休みの日には上野の動物園や浅草の仲見世を覗き遊ぶことが出来たす(し)、洋服を作る習い事に通う事も出来(でぎ)だ。新聞を読む事も出来た。時には仲間と滅多に乗れないタクス(シ)ーに乗るごども有った」

 それが母にとって楽しい青春の思い出だったのだろう。母は工場では読み書きが出来たということと、仕事の内容も覚え、自分と同じように地方から出てくる後輩の面倒見の良い所を買われて指導監督者的な事もさせられていたという。

 しかし、戦争が母の環境を一変させた。昭和十二年に始まった日中戦争から戦雲が拡大し、そのために経済環境が一変したと言った。昭和十四年には電力調整令が公布され働いていた工場が度々操業を中止するようになり、昭和十五年には砂糖やマッチが統制され配給制度になる。給与の滞りとともに仕送りも出来なくなり生活は苦しくなる一方だったと語った。

 母の身を心配する父親の帰って来いとの再三再四の催促を受けて昭和十五年の夏、二十四歳の時に母は東京を後にしていた。翌年の昭和十六年には米が配給制度になり第二次世界大戦に突入した。その後、贅沢は敵だ。欲しがりません勝つまではの標語までが作られ都会に在っても田舎に在っても国民は政府の言うままに耐乏生活を強いられたのだと語った。母に縁談が持込まれたのは帰郷したその年の秋だったという。

俺家(おらえ)の孫達だって、まだ学生だけど東京と山形へ出て正月とお盆にさえろくに帰って来ねャ。遊ぶのが面白いんだべ。ます(し)てや東京で一家を構えだら簡単には帰って来れねェべ。仕事のこともあるし嫁さんも子供も居っぺす、孝一さんも仁志さんも思うように動げ()ャでしょ。」

 小母は結婚している長兄と私の名前を出した。私はここ数日の長兄(あに)(いもうと)(おとうと)との話し合いの結果を小母に正直に話した。

長兄(あに)と義子と信夫と私の妻と話し合って、今回は東京で暮らしてみるかと母に言うつもりで帰省した。長兄(あに)は大腸癌の治療の傍ら去年の一月の誕生日を以て定年退官した。今、七十一(歳)になる。世話をする奥さんも七十近く歳が行っているから母や智を世話するのは無理。

 義子は団地住まいだけど今の独身世帯の住居から家族世帯用の住居に変わっても良い。家賃が上がるけどその分と母の介護保険の一割負担と生活費等の一部を母の年金や預金で補うことを姉弟に認めて貰えれば母の面倒を見ても良いと言っている。

 私も長兄も寮住まいの信夫も経済的な負担は協力すると義子に言ってある。義子は、母も実の娘の世話を受ける方が気が楽だろうと思うと言っている。

 私の所は娘一人が嫁に行き、もう一人が三十の歳を超えて自分で生活をしたいと近くのアパートを借りて引っ越した。部屋は開いている。優子は専業主婦だし母と兄の面倒を見るのには一番適しているんだけど、どうしても智兄の事を気にしている」。

 本家の小母と言うだけでなく、母と小母との間には金銭的なことも含めて長い間の助け合いによる築かれた信頼関係がある。私はその事を中学高校生の時から知っていて小母は私の心情を話せる相手だ。

 

 本家は父の兄の遺児が跡を継いだ。その小父は先祖から受け継いだ田畑と山林があるものの現金収入を得る方法は炭焼きによる木炭の製造でしか無かった。小父が父の所に来て、納入する木炭以上に借金を申し込む姿を私は小学生の頃から何度か目にしている。その小父は私が中学三年の時に隣町に向かう途中、交通事故に巻き込まれて死んだ。山間の見通しの悪い曲がり角での対向車のスピードの出し過ぎだった。小母はまだ小学校にあがったばかりの利男以下三人の子を抱えて生活を支えていくのは容易なことではなかったろう。

 何時か私が帰省して本家に顔を出した時、寡婦となった後の私の母を指して、伯母ちゃんには一杯助けて貰った、伯母ちゃんの御陰で子供達も育てられたし、やっと生活出来るようになったと、今、目の前に居る利男を前に語ったことがある。

 

「智さんの事は、あんだ(あなた)(だず)姉弟が分かってやっても、孝一さんも仁志さんも嫁さんや子供に理解してくれとは言えないっしょ(言えないでしょう)。誰が考えでもそうなっぺす。伯母ちゃんを東京さ連れて行ぐのは無理だべ。

 伯母ちゃんは智さんから離れられないのしゃ。なんだかんだあったって智さんのこと可哀相だど思っているんだよ、伯母ちゃん。

(わだす)も大したこと恩返(おんげャ)し出来ないけど、時々町さ行って寄って見っから、あんだ(だず)も、時々東京から伯母ちゃんに顔を見せに来れば、それで良いしょ。」

 小母の意見は、私がここに来る前に電話でも話した、田舎の事は田舎でヤルからと言うことだった。

「久美子ちゃんも大変だろうけど、一関を引き払って家に入ったらどうだべ。」

 横に居る六十六歳になる久美子姉は、今、一関市内の市民住宅に住んでいる。東京で働いていた二十代後半に東京大田区にある工場に勤めていた人と一度結婚したが早くに離婚した。子供は居なかった。

 生家に戻らなかったのは自分の生活を維持するために一関駅前で洋服店を営んでいた次兄の店を手伝うことにしたせいもあるが、結婚した相手が仲人の口利きで生家の真向いの蒲団屋の主人の弟だった。当時の風習で生家の二階座敷で三日三晩姉達の結婚披露宴が開かれた。私の記憶にも残っている。それだけに姉には生家は帰りづらい所だった。都会の隣は何をする人か、家か分からない、分からなくて済む近隣環境と違って田舎では冠婚葬祭全てに隣組み、親類が顔を出す。それ以後、母にとっても姉のことは近所づきあいに気兼ねする事だった。姉と同じ中学校に通い同級生だったという小母は、そんな昔のこと気にする必要は無いというが、姉は苦笑するだけだ。

 

 小母の意見は私の想定の中の一つだ。小母の意見を確認すると、傍らで黙って聞いているだけだった利男に今の仕事が何か聞いた。

「今、上水道管理の事業団に出向しています。仕事の上での問題は特に無いけど、町の人口がまた減って八千人程度までになっています。水道料金の収入も税収も減る一方で町財政が苦しくなるばかりです。また、町民の高齢化率が五十パーセント近くにもなって非課税者が増える一方です」

 頷きながら町民を増やす特効薬は無いなと利男に言い、奥さんである由利さんに町が運営している特別養護老人ホームの入所状況を尋ねた。去年の夏に帰省したとき、脳梗塞で倒れた後のリハビリを続けていた母は自分も町の特養に入所したいと言った。私は母に介護度2ではまず入れ無い、入所申し込みの申請は出来るけど順番待ちの登録扱いになると説明した。実際は母の特養入所の申請をその時にしてある。

「この町には外に社会福祉法人等が運営する特養って無いでしょ。介護度3どころか介護度4になってさえも順番待ち。町では在宅で介護サービスを受けられるように訪問介護の普及を推進してきているけど、それも介護士の手があってのこと、田舎は介護士の絶対数が少なくて、それで困っている」

 私自身の仕事上、彼女の言うことは理解できる。由利さんは閉鎖的な田舎の問題も口にした。高齢者によっては自分の家を他人に見せたくないという意識が先に立って介護士を家に入れない、要介護者が出たことが何か悪いことでもしたかのように捉える方も居るという。

「この食材を使って夕食を作ってくれと介護士に言えれば良いけど、こんな物しか食材を準備出来なかったと羞恥心が先になって食事作りの生活介護を断るのっしゃ」

 問題の一つの具体的な例を語った。老人世帯の栄養失調の状況をしばしば耳にしていると言う。そして今は、なるべく寝たきりにならないよう、寝たきりになってもその期間が短くて済むようにと高齢者を対象に日頃の食事のバランスの取り方、運動の継続の普及を保健所を中心にして地区毎に実践するよう取り組んでいると語る。