正月に母と三男である兄の様子を見に来て、約三ヶ月ぶりの帰省になる。凡そこの四十年は二年に一度か三年に一度、父のお墓参りを兼ねて寒い正月よりも旧盆の頃に帰省している。しかし、母が去年の五月半ばに脳梗塞で倒れて左足を引きずる後遺症を抱えてからは、再三再四、母と兄の生活の窮状を訴える姉(次姉)の電話が続いた。今回を含めてこの一年で五度目の帰省になるのかと指折り数えた。

 

 やまびこは定刻通り午前八時三十六分に一関駅に着いた。新幹線の改札を通り在来線側の改札口を出ると、姉の自家用車(くるま)がいつもの駅前ロータリーで待っていた。空は雲天で北風が吹く。寒い。家を出るときにテレビで見た仙台、一関周辺の今日の最高気温は十五度前後の予報になっていたが、今の気温は五、六度だろう。

 生家までは約四十分の道程(みちのり)だ。乗合いバスだと凡そ一時間かかる。自家用車(くるま)が走り出すと運転する姉の質問がすぐだった。

「今度は覚悟を決めて来たのか、結論は出たのか」。

「その話は生家(いえ)に着いてからだ。明日の午後の新幹線で所沢に帰らざるを得ない」。

 来週は年度末だ。休み明けの月曜日に各出先事業所の所長は本庁の会議室に集合を掛けられている。福祉事業に関係して質疑応答のあった事項についての議会報告と業務実績について第四四半期と一年間の集計について報告があるのだろう。休むわけにはいかないのだ。三十、三十一日には諸先輩や一緒に働いた仲間が退職の挨拶に来る。また木曜日からは新年度が始まる。新規に採用された職員や人事異動で発令される新しい職員を迎える準備も確認しておかねばならない。

「今日と明日、土日だけの日程だ」。

車窓に目を遣ったまま、私は昨夜、床に就くまで話した妻との会話を思い出していた。

 

「お義母さんの気持ちを確かめてね。今までしてきた生活スタイルを変えるって、お母さんも、私達も大変な事なのよ」。

「仕方無いだろう。今まで一人で頑張ってきたんだから、今度は考えなきゃいかんだろう」。

 ここ数年の間、度々繰り返し話してきた母の介護の問題だった。いつ帰省しても結論の出ないまま、と言うより自分自身半分は意識的に避けてきた。

 

 母と三男の生活の様子を三十余年身近に見てきた姉は、私や妹弟が帰省する度に誰か田舎に帰ってきて母の面倒を見てよと必ず言う。帰らない年は、お盆ぐらい何故田舎に帰ってこないのかと私や妹に電話を寄越す。私はその度に今仕事の方が忙しくて時間が取れないとか、立場上自分が今、席を離れるわけにはいかないとか都合の良いように言い訳し、姉の愚痴を聞くだけ聞いて、母は何とか持ちこたえてくれるだろうと勝手に判断してきた。

「母ちゃんも八十八だよ。足もあのとおりになってす(し)まったし、食事を作るのも何もかも億劫になってきたのよ。自分のトイレの用足しだって間に合わない時だってあ(ある)んだから引き取って面倒見ること、真剣に考えてよ」」。

 

 妻の言葉も姉の言葉も私は頭の中で何度反すうした事だろう。自家用車(くるま)はまだ冬枯れの裸のままの山々と所々に氷の凍てついた田んぼを横に見せながら進む。北上大橋を過ぎると黄海川、藤沢川に沿って進む車道と景色に何時来ても故郷に帰って来たのだなと思う。

 生家は旧街道の両側に沿って家々が並ぶ藤沢の町並の入り口近く下町(しもまち)と呼ばれている所にある。通りに面している家の表は玄関口の戸と並んで六枚のガラス戸になっている。かつて商売をしていたときの店先の構造のままだ。

 この家で育った頃も帰省した時も玄関口より客が出入りしていたガラス戸口から家に入ることが多い。そこを通ると、昔ながらの小さな空間の土間があって一段高くなった十畳程の板の間の居間に続く。自分が小さい頃にあった居間の囲炉裏は大分前に掘炬燵式に改造されている。  

 

 母も兄もまだ布団の掛かる堀炬燵の定位置に座っていた。

「ただいま。お変わりございませんか」。

 帰省の挨拶に、母は笑顔と顎を引いて頷いた。兄もまた黙ったまま私に柔らかい目を見せただけである。そこから十畳と六畳の和室二間を通り抜け、何時もの通り二階の部屋に荷物を解いた。

 階下に戻ると、六畳間の中に作られて有る仏壇にお線香を焚き、手を合わせた。父と先妻と五歳で亡くなったという長姉(あね)と、一歳で亡くなった妹の位牌が並ぶ。

 父が亡くなって三十七年が経っている。父は私が地元の高校を卒業して東京へ出て一年と経たない昭和四十二年の二月に心筋梗塞で急死した。六十四歳の誕生日を過ぎたばかりだった。

 父の異変は前日に火入れした炭焼き窯の様子を見に朝九時前に家を出て、雪の積もっている山道を行く途中で起きた。山道ゆえに人通りは滅多に無い。たまたまの通りすがりの人に午後二時頃、父が倒れているところを発見されたと後で姉から聞かされた。その日の夜八時頃に父は当時まだ有った岩手県立藤沢病院で心筋梗塞のため亡くなった。

 あの日の夕方に姉から連絡を貰った東久留米市に住む長兄(あに)が荒川区の私の職場に連絡を寄越した。上野駅で待ち合わせて二人が夜行列車と乗合いバスを繫いで翌朝生家に着いた時、父は遺体となって病院から戻っていた。この仏壇の前に床が延べられ、棺桶に入れられる前の父の遺体が横たわっていた。

「あんだ達が帰ってくるまで、そのままにして置いだべさ。早く線香あげでけろ」

 葬儀の手伝いに来ていた隣の家の小母さんが声を掛けた。言われるままに床の側に寄ると、父の顔は穏やかでまるで眠っているようにも見えた。火の気の無い二月中旬の寒い部屋の空気よりも父の身体はもっと冷たかった。死人の手を握ったのは、私はそれが初めてである。周りに人が居たせいではない。何故か涙が流れなかった。枕元の二本の線香の紫煙の揺れが、長兄と私に来たかと声を掛けているように思えた。

 

 次男坊の父はこの町の四キロ離れた在から出て戦前に米屋を営み、戦後は木炭を扱う小商いに精を出した。私が小中高と通い育ったころは日雇い作業に出る日もあったけど住居兼用で木炭を扱う小さな店を通りに面して出していた。炭焼き窯を自分でも抱えていて木炭製造の焼き子であり、また在に住む焼き子の木炭を買い取り販売していた。

 父が亡くなったとき母は五十一歳だった。妹が高校一年、弟がまだ小学校四年生だった。生家に残っていたのは外に精神病院の入退院を繰り返していた私のすぐ上の兄、三男の智だ。私達は十人兄姉である。

 田舎では子沢山が珍しい事ではないが、長兄次兄と長姉次姉は先妻の子である。三番目の姉以下六人が私と同じ母から生まれた。先妻の子、後妻の子の違いはあっても仲の悪い兄弟ではなかった。

 長姉を除いて丈夫に育った先妻の子三人は中学高校を卒業して東京に出た。その三人が帰省する回数が少ないと、ほら後妻が継子いじめをしたから帰って来ないとか家に寄りつかないとか、中学生の頃の私でさえ隣近所の主婦の中に悪い噂をするのを耳にした。

 

 しかし、私達親子も兄姉も実際の仲は悪くなかった。生家に寄る度に過度に酒を飲む次兄に酒を口にしない父が声を荒げることはあった。それも私が高校生になったあるとき母がその理由を話してくれた。父の母、つまり祖母は祖父と同じように大酒飲みだった。私は仏壇のある部屋の梁に飾られている遺影の中の祖父しか知らない。その祖父が亡くなった後も、祖母は殆ど毎日四キロも先の在から夕方になると町に出かけてきて当時一軒しかない酒屋で飲むのだった。

 飲んでも誰にも迷惑を掛けず自分の家に帰るのであれば問題にならない。だが祖母は違った。飲み出すといつも腰を取られ歩けなくなるほどに飲むのだった。そして家に帰る道端の草原(くさはら)や土手に眠り込んでしまうことが度々だったという。通りすがりの誰かがそれを見ては息子である父に注進し、父か母が負ぶい紐を持って出かけ背負って四キロ先の在の家まで届けるか、この家に連れて帰ってきたのだという。タクシーがこの町に無い、自家用車が珍しい時代だった。

 父は両親の大酒飲みの毎日を小さい頃から見て育った。祖父が亡くなってなお酒癖の悪い自分の母のだらしない姿態を見せつけられて大酒を飲む身内を憎悪していた。父が祝い事や神事などの場合を除いて酒を口にしなかった理由がそれだった。次兄の飲酒をみると父には忌まわしい過去の記憶が重なったのだろう。

 

 その祖母は私が小学校に上がる前の頃に亡くなった。母に聞かされた祖母の行動は私の記憶には無い。祖母の顔も祖父の写真と並んで梁に飾られた遺影の中でしか知らない。それなのに、不思議と祖母の葬式で山の中腹にある本家の墓に向かう野辺送りの光景だけが私の脳裏に記憶としてある。