一
「コーヒー」。
販売員に声を掛けて上着の左ポケットの小銭入れを探った。大宮駅から「やまびこ」に乗って三十分ぐらいになる。宇都宮駅を通過したばかりだ。
「お砂糖とミルクのご利用は?」
「何も要らない」。
髪をポニーテールにまとめた彼女は渡した硬貨を無造作に前掛けのポケットに収めた。
慣れた手つきで紙コップにコーヒーを注いで寄越す。目の前の手押し車にはお菓子や飲み物、新聞、雑誌などがこれ以上載らない程に積まれている。売れ筋を前面に出し自分が取り扱いやすいように整理しているのだろう。良く落ちないなと感心する。
彼女は揺れの混じる狭い通路を離れて行く。その先の車両出入り口の上では黒い板の上を浅黄色に輝くテロップが右から左に流れている。開幕したばかりの昨日のプロ野球の結果とイラン国内でのテロの発生と被害情報を伝えていた。
この車内電子版もテレビやラジオと同じだ。それぞれのニュースには前後の脈絡もなければ感情もない。事実を伝える情報も残酷な情報も一緒くたに伝える。人の気持ちなどどうでも良いのだ。昨夜の眠りの浅さとこれから行く故郷で何がどうなるのか分らないことのせいだろうか、そのテロップが私には苦々しく思える。
釈然としない思いが胸の奥に湧いてきた。自分の神経が苛立っている。座席をリクライニングして深く腰を沈めた。一関駅に着くまでまだ一時間半はある。明るくなり始めた窓に目を移して後ろに流れる土色の田や畑と時折混じる小さな森、杉木立に囲まれた家々を見送る。コーヒーの苦みが喉を刺激した。朝早い東北新幹線の中は頭を上下左右に揺らす客が多い。
私は四時を過ぎた頃に起きて、顔を洗いヒゲを剃っただけで前の晩に準備した小さなリュックサックを背に小手指の家を出た。三月末の外はまだ薄暗く冬の寒さが残る。薄くなった頭髪に毛糸の帽子は必需品だ。
西部池袋線小手指駅発の一番電車に乗った。午前五時前だというのに乗った車両の座席は空きが無いかった。また、いつも自分の通勤時間帯に見る客層と違っていた。ワイシャツに背広でコート姿の通勤客よりラフなシャツにダウンコートやジャケットにアノラックの上着でマフラーを首に巻いたり結んだりした客が多かった。魚河岸に急ぐのだろうか。竹編みの大きな手提げ籠を長靴の足の間に置いた今の時代には珍しい客も見られた。女性客が意外に多いのも驚きだ。勤め先の関係でそうなるのだろう。自分の同僚の中にもこの時間帯に職場に向かう者が居るのだ。一日二十四時間、早出、遅出、日勤、夜勤に別れた勤務表から言えばそうなる。
小手指駅から三つ目の秋津駅で下りて、武蔵野線新秋津の駅までは歩いて五分程だ。まだ明け切らぬ薄明かりの中に浮かぶ商店は寒気の中にシャッターが下りたままだった。私と同じように乗り換えのために通る人達は誰も肩をすぼめ無口で黙々と足を運んでいた。
乗った武蔵野線もラフな格好の乗客が多かった。空いていた席に座ると、正面の向いの席にはいかにも疲れましたと若い男女が頭を寄せ合って眠りこけていた。男は座席の端っこに腰を乗せて通路にだらしなく両足を投げ出し、隣に座っている赤いルージュの唇の女性は頭をやや後ろに倒して白い歯を見せたまま首を長髪の男の左肩に乗せていた。一晩中、二人はどこかで遊び惚けて来たのか。私の青春時代にこういう時はあっただろうかと有りもしなかったことを思った。
武蔵浦和駅で池袋方面から来る埼京線に乗り換え、大宮駅に着いたのは六時ちょっと前だ。エスカレーターに乗って新幹線の北口改札に出た。通る人は少なかった。途中、開いたばかりの売店で菓子折を四つ買った。これから行く実家の母のところと本家用に、そして一関市内に住む次姉と次兄宅にと買ったお土産だ。妻が用意してくれた実家の隣近所に配る挨拶代わりの狭山茶の包みと別に、帰省する際に何時も購入するパターンだ。
朝食用に鮭と昆布のおにぎり二個とボトルのお茶も買って新幹線に乗り込んだ。
これから行く私の生家のある町は、岩手県南の鉄道も通っていない藤沢という町だ。町は館山と愛宕山と呼ばれる標高二百メートルほどの二つの山の谷間にある。二つの山の間を東から西に下る川幅五メートル程の藤沢川が流れる。その川の流れに沿って館山の裾野を巻くように鎌倉時代からと言われる古い街道がある。今では舗装されたその道幅八メートル程のその両側に三百戸余りの屋根が連なって町と言える集落を構成している。
町並みが途切れると、曲がりくねった道筋は途端に畑と田んぼが広がり雑木林の小山が後ろに続く。今でも町の凡そ八十パーセントは山林だ。何処にでも見られる田舎町だ。
街から南に五キロほど歩けば七曲がり峠越しに宮城県に入る。藤沢川は、五キロ先の黄海地区で黄海川と呼称を変えて流れ、更に二キロ先の日形町を通りその先十キロ程で川幅百メートルにもなる北上川に合流している。
育った頃の藤沢の町は、戦後を引きずる面と復興を目指す山村集落の風景の中にあった。外地からの引き揚げ者の話や新しく出来た小さな工場の人員募集が話題になった。当時、まだ拡幅工事も舗装もされていない五メートル程の狭い道幅の街道筋ではあちこちで遊ぶ子供の声が響き、先を急ぎ行き交う車のクラクションが騒々しくも有り、良く言えば活気に溢れていた。猫の額みたいな所に町の人口は二万人を超えていた。東北本線の花泉駅や一関駅に行く乗合いバスや反対方向の大船渡線の千厩駅に行く乗合いバスは朝六時台の始発から夜十時台の終発までにそれぞれ日に四十本はあった。
そんなことを思い出しながら、今を思った。あれから四十余年過ぎている。過疎化が進み一万足らずの人口だ。高齢化が進み六十五歳以上が四割を超えている。乗合いバスは花泉一関駅方面行きも千厩駅行きも日に二、三本しか走っていない。住民の激減に自家用車を持たない病院通いのお年寄り等のために運行されているようなものだ。ここ数年、路線廃止が取り沙汰されていると聞く。採算性の問題から言えば誰が考えてもそうなる。
町並みも変わった。町裏の役場前の道路が拡張整備され、その道路に沿ってかつての田んぼや畑だった場所に新しい家々が並び、二つのスーパーが出来ている。
街道沿いの表通りは昔のままにバス通りだけど、その町中の生家近くにあった八百屋や魚屋、肉屋、豆腐屋といった個人商店は店じまいに追い込まれ、かつての活気に満ちた商店街の面影はない。それどころか、そこここの家々は住む人も帰ってくる人も居ない空き家が目立つ。賑やかだった街道沿いは、今は昼日中でさえ通る人も車も影が薄く寂しい有様だ。
町裏にあった県立病院も私が上京した翌年の昭和四十二年三月に廃止された。父が亡くなった病院でもある。だけど今は、ほぼ同じ場所に町民病院が運営されている。町民の強い願いと結束で平成四年に開設された。町の人々は勿論のこと近隣の町の人々にも頼りにされ利用されている。帰省する度にそれだけが唯一、町の誇れる物に思える。