(サイカチ物語・第8章・遂志・23)
仙台市史は伊達政宗に引き継がれた大原城(山吹城)に、その家臣粟野宗国が名取郡(宮城県)から所替えを命じられ城代として入城したと伝えている。豊臣秀吉による奥州仕置きを受けた政宗は、先祖伝来の山形の米沢とその周辺の土地を失い減封されて岩出山に移ると、その家臣団の再編をも余儀なくされたのだ。数万石の所領を有した粟野宗国が僅か六百石程度の大原城に所替えされたのである。奥州仕置き時の政宗の窮状も相当なものだったことが分る。
政宗は、秀吉に貰った不確実な葛西一族の旧領地約三十二万石を確実に伊達の領地にするために佐沼城に籠もる一揆軍五千人余をナデ斬りにした。その後、あの須江山に葛西一族郎党を集めて根絶やしにした。その思いを新たにしながら大原城址を後にした。
腕時計はまだ午前九時を廻ったばかりだ。唐梅館跡には十時前に行けるだろう。今泉街道に沿って快調に自家用車を走らせた。
あっ、いけない。寄って確認するのを忘れた。途中で一瞬戻ろうかと思った。だけど、次の機会でも良いかと考え直した。大原町には伊達藩五代藩主伊達吉村生誕の地の石碑がある。城址からの帰り道の勤労者体育館近く春日グランドの傍にその石碑がある。寄り道して見ようと予定していたのだ。吉村は伊達藩の中興の英主と言われている。四代藩主伊達綱村の乱費の後を継いで、幕府に参勤交代の免除を願い出る程に逼迫していた伊達藩の財政立て直しと藩政改革を断行した人物だ。葛西晴信に関する古城巡りだけを意識していた高校時代には知らなかった。
考えてみると、約四百年続いた葛西一族が滅んだ後、伊達藩も約四百年間、明治時代を迎えるまで大原町を支配したのだ。葛西一族の領地が伊達政宗に取って変わったのだからこの町に伊達藩の由緒ある史跡、逸話が有って当然だ。
一関市東山支所の看板を右に見ながら山道に入り十年前と変わらない坂道を上って行くと、キャンプ場の駐車場を手前にして右側に唐梅館入口という小さな案内の木札が立っていた。ここからでも館跡に行けるらしい。本道から外れて山際の空き地に車の頭を突っ込んで駐車した。上る細い道は膝丈まである雑草が左右から迫り、朝方まで降った雨が膝を濡らした。山頂に着くと、ここではガッカリする光景を目の当たりにした。館址のどこかしこも草ボウボウだ。門柱の立つ木戸口も二の丸も一段高くなっている本丸辺りも腰近くまである雑草に覆われている。草を刈り手入れをしなければ誰も訪れる人が居なくなる。唐梅館は自然の地形を利用した守りに固い詰めの城だ。それを特徴づける南側斜面のらせん状の複数の段差は雑草に遮られて見た目には全く分らない状態だ。唐梅館址を語る案内板も丈の高い雑草の中だ。
長坂千葉氏は葛西時代、磐井、江刺、胆沢、気仙、本吉など各地で勢威を誇った千葉を名乗る諸将の宗家、また、居城唐梅館は天正十八年四月十七日、葛西麾下の諸将が参集して秀吉軍令の小田原参陣の是非を議した由緒ある館、そう書いている案内板が変っていなかったのは良いとして、今は市町村が合併して一関市教育委員会が管理するのだろう。なのに案内板は末尾に昭和六十三年七月一日、東山町教育委員会のままだ。案内板すら管理の目が行き届かないのか、草刈りをする予算がないというのか、どうあれ、一関市に連絡して改善を提言して行くべきだろう。
山を下り、唐梅館総合公園とある大きな案内板の傍に路上駐車した。スマホで一関市教育委員会文化財課を検索し、唐梅館址の草刈り等の手入れをするよう要請した。行政への要請は単なる旅行人よりも地元の一市民からの方がより効果を期待できる。しかし、偽って言えば住所と名前を聞かれて応えられなくなる。旅行人であると伝え、所沢の現住所と名前を名乗った。
ついでに、仙台市博物館が今何を展示しているのか検索した。現在「生誕四五〇年、伊達政宗の城」を展示とある。伊達政宗文書特集と銘を打った展示は、六月十八日の日曜日に終わったばかりだ。