(サイカチ物語・第8章・遂志・22)
この地域に「山吹城男盛女盛」の民話がある。
ある年の初秋の頃、豊臣秀吉からこの城の大将宛てに令状が届きました。その令状は桃生郡の深谷という所まで出頭せよというものでした。使者の話では、山吹城の大将を大名に取り立てるお墨付きを授与するのだから大将自ら深谷に出頭するようにとの申し添えでした。
これを聞いた城内の人々は大喜びで出発の準備をしました。この時、山吹城の大将はまだ十四歳、紅顔の少年でした。少年城主千代竹丸は儀式用の直垂に緋縅の鎧を着て白馬に跨がり、従兵三十人を率いて出発しました。豊臣秀吉から本領安堵のお墨付きが貰えると、慶び勇んで深谷に出発したのでした。
見送る城内の家臣や家族、恋人は、男は「男盛」に、女は「女盛」に上り、道中の無事を祈って一行の姿が摺沢の街道筋に見えなくなるまで見送ったのでした。
「女盛」に上って見送った人の中に、千代竹丸の母親と許嫁の姫君がいました。
この姫君は山吹城の本家にあたる登米郡寺池(宮城県)にあった葛西家のお姫様でした。
豊臣秀吉の命を受けて進軍してきた蒲生氏郷等の軍勢によって寺池の葛西家は一年前に滅亡していました。お姫様は、寺池の葛西一族が離散したときに山吹城に身を寄せたのです。そして、少年城主、千代竹丸との間で愛を育てていたのでした。若い二人でしたから愛を育てるのに長い時間を必要としませんでした。
城主達は出発してから一週間くらいで帰ってくるハズでした。しかし、約束の一週間が経っても十日経っても誰も帰ってきません。音沙汰さえ何も有りませんでした。
出かけた城主千代竹丸や家臣の家族、許嫁、恋人は勿論、城に残っていた家臣達もみな心配になってきました。幼いお姫様は、昼も夜も心配して食事もろくにとらないようになりました。朝から日の暮れるまで「女盛」に上ったままになりました。
許嫁の千代竹丸を見送り、千代竹丸の姿が見えなくなった街道筋を今か今かと帰ってくるのを祈りながら見つめるばかりでした。それは雨の日も風の吹く日も休まず続けられました。お姫様は、いじらしいばかりに待ちこがれたのでした。
しかし、秋風の吹く頃になって、風の便りに桃生郡の深谷という所で多くの人が殺された。豊臣秀吉の甥の関白豊臣秀次の命令によって深谷に集められた多くの武将達が謀殺され、一人も帰されなかった、との噂が聞こえてきました。山吹城の千代竹丸と従兵三十人もその殺された人々の中に含まれていました。
お姫様は、その頃にはすっかり弱り果てて、立って歩くこともようようのことでした。しかし、それでも千代竹丸が無事に帰るのを期待して、「女盛」に上ることを止めませんでした。そして遂に幼い命をこの「女盛」の上で終わったのでした。
この地は伊達政宗の領地となり、山吹城は廃城となりました。主の居なくなったお城は荒廃していくのは速いものです。城中に人影もなくなり館も大方取り壊され、草に荒れた城跡に鈴虫の鳴く声だけが残りました。
そして、豊臣秀吉の命令で、秀吉の家臣、石田三成が山吹城の修復にあたることになりましたが、そのお城には伊達政宗の家臣が入りました。
お城は復活しました。しかし、それから時が過ぎて、秋雨の降る夜などに「女盛」を見ると、お姫様の立ち姿が見えると城下の人々が誰言うとなく囁くようになりました。
四百年を過ぎた今日でも、「女盛」に若い女性が上ると雨が降ると伝えられています。山吹城の鈴虫は、秋の訪れを告げると共に今もこの城の悲しい「女盛」の話を思い出させるのです。
男盛、女盛は、全国方々に残る山を登る時に例えられている男坂、女坂と同じ類いのようである。山の同じ場所に至るにも険しい上り道が男坂、遠回りになっても緩やかな上り道を女坂と言うように、ここでは人工的に盛り土された見晴らし台等の場所で、一段高く作られた場所が「男盛」、それより低く女性の足でも上り易い場所に作られたのが「女盛」なのだろう。
昭和四十九年十二月に発行された大東町文化財調査報告書第六集別冊「大東町の城館」に掲載されている山吹城跡図(別掲26)には、本丸の並びに「男森」本丸より一段下の土塁の傍に「女」と表示がある。それが民話に出てくる「男盛」と「女盛」なのだろう。
須江山の惨劇に関連して千代竹丸と葛西氏本家の姫君とのエピソードが民話に残るぐらいなのだ。石田三成の故事より千代竹丸が須江山で惨殺された記録の案内板の方がズーッと良い。私はそう思う。
