(サイカチ物語・第8章・遂志・21)

 

 二十一日。朝から雨だ。テレビでも気仙地方、岩手県南部は今日一日、雨の予報だ。雨に霞む大船渡湾をみながらの朝風呂の中で、碁石海岸を歩くのを諦めた。朝食を早く摂って一関の大原城址、唐梅館に廻ろう。どうなっているか確認して、その後、仙台に行こうと心に決めた。途中にあるはずの牛の博物館での前沢牛の試食はまたお預けだ。

 仙台市史資料編十二とある伊達政宗文書全四巻のうち第三巻及び第四巻をまだ入手していない。葛西晴信、葛西一族との関係では、政宗が青壮年の時に発行した文書を収録している第一巻及び第二巻が貴重だ。太守葛西晴信を裏切る葛西氏重臣に宛てた政宗の秘密文書も収録されている。第三巻及び第四巻は政宗が五十を過ぎてから発行した文書を収録している。同時に政宗の主要な家臣を一覧にまとめている。また政宗の略年譜を掲載している。それらの資料は葛西一族の重臣だった裏切り者等の一部が、その後、どのような処遇を受けたのか、また政宗と晴信との関係がどの時期にどういう紛争、調停が有り、姻戚関係を結んでいたのかを知る私には貴重な資料だ。近くに来ているのだ。購入しよう。そう思うと、身体がウズウズしてきて朝風呂を飛び出した。

 

 七時半には精算を済まして宿を出た。十一時から十一時半には一関インターに行こう。

高速の東北自動車道を走れば、約一時間で仙台宮城インターまで行ける。そこから仙台市街に入って仙台市博物館のある青葉城までの時間を計算に入れても往復約三時間の道のりなら博物館内の展示物を改めて見て刊行物を漁り、閲覧して歩いても母の作る手料理の夕食までに十分間に合うように帰って来られる。時間との関係で閲覧しえない必要なものは購入すれば良い。スマホでこの後の時間スケジュールを立て、宿を出た。

 

 大原の街に入る頃には薄日が射してきた。雨上がりの後の大原城址は初夏の草息のする雑草の中にあった。しかし綺麗に草刈りされていて、十年前と変わらない山容だ。

 城址の上り口にあった山吹城(大原城)本丸跡の案内板は平成二十八年三月に更新されていた。最後の一行が大原町教育委員会から一関市教育委員会に変っていた。築城が寛喜二年(一二三〇年)、奥州探題として関東から派遣された千葉頼胤の子、宗胤が最初に築城したという故事や、本丸や二の丸等の広さ、奥州仕置軍に抗して最後の城主千代竹丸が宮城県石巻市桃生町の神取に大将として出陣した事等は新しい案内板にも記述されていた。しかし、あの須江山の惨劇を伝えていた「千代竹丸十四歳は翌年(天正十九年)八月須江山で謀殺された」の一文が削除されていた。代わりに「山吹城も落城しましたが、翌年の九月には石田三成によりこの地方の要地として修復されました」とあった。

 

 腹立たしい思いがした。石田三成を書くなら、豊臣秀吉の命を受けた石田三成が山吹城を修復して新しく領主になった伊達政宗に引き渡した、と丁寧に書くべきだろう。稚拙な文面だと思う。それよりも私は、他の市町村の古城案内板には見られない須江山の惨劇を伝える唯一の案内板と記憶していただけに、「千代竹丸は、・・・須江山で謀殺された」の一文の削除は残念に思えてならない。