(サイカチ物語・第8章・遂志・19)

 

 気仙沼港を後にしたのは午後三時に少し前。雨が降り出しそうな空模様になってきた。国道四十五号線を走りながら陸前田高田市にある米ヶ崎(よねがざき)城址と蛇ヶ崎(じゃがさき)城址は高台にあるから震災被害はないだろうと想像した。

 陸前高田市は自分が大学三年の終わりにボランテァで全国から寄せられた衣類品等の整理と支給の手伝いに来た震災被害地だ。それだけに、殊更に復興回復の進捗状況に期待を膨らませた。

 しかし、現地に入ると腹立たしさが募る。盛り土や護岸工事も、整地も進んでいるのは見た目にも分る。しかし、松原と壁に書かれたかつての道の駅や市営住宅だろうか、震災の爪痕を物語る大きな建物の残骸が未だにそのまま残っていた。震災から六年も経つのに工事の遅れを物語るものだった。私にはそうとしか映らなかった。

 勿論、人家は一つも無い。よそで見てきた復興を物語る店舗らしき物も目に出来なかった。それが私の腹立たしさを一層かき立てた。県も国も何をしているのだろう。どんな支援をしているのだろう。分からずに悔しい思いが募った。

 

 盛り土等の現状を横目に見ながら脇ノ沢駅のあった辺りから広田湾に面した米ヶ崎城址を目指した。十年前の古城巡りで寄らなかった所だけに今回は是非に見たいと思った。ノートのメモ書きには米ヶ崎城址は北側が陸続き、東西と南が海に突き出た高さ十メートルから十五メートル程の断崖の上とある。岩城先生が、葛西晴信の小田原参陣を思いとどまらせた悪因(あくいん)の一つを作った浜田安房守の墓があると言っていた場所だ。岬の突端の辺りまで来た。

 しかし、目の前に新しく造られた護岸が大きく立ちはだかった。工事現場をグルグル回った。浜田安房守の墓碑も米ヶ崎八幡神社も、そのあった場所らしいところを探し廻ったけど、とうとう確認できない。地元の人に尋ねようにも人影すら見えない。心残りだけど小友地区に行ってみよう。自家用車(くるま)を走らせながら、ボランテァで来た時に見た十五メートルも高さのある雑木林や竹林に引っかかっていたビニール袋を思い出した。米ヶ崎城址は、あの津波で洗い流されてしまったのだろうか。

 

 小友地区にある蛇ヶ崎城址も太平洋に突き出た半島にある。メモ書きには二、三十メートルはある断崖の上だ。海辺の護岸工事等を横目に見ながら途中で出会った通りすがりの地元の古老に聞くと、この道の先に神社が在るという。それだけで安心を覚える。実際、行って見ると土塁も城址も十年前と変わり無かった。ただ震災復興公園とある石碑が建てられていた。葛西晴信の命を受けて浜田安房守の乱を鎮める仲介役を果たした及川掃部頭(おいかわかもんのかみ)重綱(しげつな)。県史にも町史にも載り葛西晴信文書でもそのことが確認出来ている。そんなことを思いながら城址の東側に鎮座する蛇ヶ崎八幡神社に向かった。

 

 十年前に古城巡りをした時、五人が手に触れた普請奉納者及川氏数名の名が刻まれた神社の標柱は健在だった。当時気付かなかった神社の社務所は来た道を戻って数軒並ぶ人家の先の右の坂を上る離れたところにあった。神社縁起や葛西一族を語る物が何か入手できるかと期待して寄ってみたけど、社務所には鍵がかかり人の気配も無く、応答が無い。