(サイカチ物語・第8章・遂志・18)

 

 国道四十五号線沿いにあった歌津の新設商店街、南三陸ハマーレ歌津で駐車した。立てられた幟と並ぶ商店に復興の息吹が感じられ活気が溢れていた。こういう場所をみると通りすがりの自分でさえ嬉しくなる。

 喫茶店に入りコーヒーを注文した。コーヒーはアイスですかと聞かれたけど、私は暑い夏もコーヒーはホットだ。腕時計は午後一時を少し回っている。一息つきながら寄ってきた二つ手前の駅の清水(しず)(はま)に在ったという大窪館(おおくぼかん)のことを思った。自分が高校生の時は知らなかったことだ。天正十八年(一五九〇年)七月、葛西晴信の家臣・大窪館主紀伊守は、晴信の命を受け伊達政宗の居る黒川城(会津若松)に情報収集に出かけた。彼はそこで政宗の謀略にまんまと()まった。葛西晴信と豊臣秀吉との接触を阻止する政宗の虚言の書状を受け取り、饗応を受けたのが彼だった。

 津波に襲われた清水浜駅はプラットホームだけが残っていた。その後ろに続く雑木と杉林の残る小高い丘に大窪館はあったのだろう。土塁や切り通しだったと思われる跡が残っていた。

 

 午後二時。大谷海岸に着いて今更ながらにショックが倍増した。道の駅と駅舎が併設してあった十年前の場所は駐車場になっていた。近くに道の駅の物産直売センターは復活していたけど、水槽にマンボウの居た日本一海水浴場に近い駅と謳われた駅舎は無い。

 広々とした砂浜も砂浜を巻くように弧を描いていた松原も跡形が無かった。津波で松原が無くなり、地盤沈下で海が陸地に近づいていた。あの遠浅の砂浜が消えていた。海と陸の間に護岸用に二段に積み上げられた黒いビニール袋が数百メートルも続く。異様だ。黒いビニールの中は砂や砂利なのだろう。

 駐車場の奥にかつての大谷海岸駅のプラットホームが残っていた。そこに書かれたマンボウの絵と大谷ステーションの横文字(英字)がそのままだ。十年前は駅舎から砂浜に行くことだけに囚われて気づかなかったイラストだ。

 プラットホームは地割れして雑草が伸びている。線路はプラットホームの先で途切れ、雑草の中に消えている。グレーと緑のツートンカラーの車両が鉄橋の足下に停車して子供たちの歓声が上がったのはもう昔のことだ。今となっては痛々しくもあるイラストとプラットホームの光景だ。

 その傍に「鎮魂、あの日を忘れない」と横書きされた板が長テーブルの上に立てかけられてある。その手前に置かれた木箱の中には小さな石のお地蔵さんだ。空き瓶に飾られた白いキキョウの花と共に悲しみを誘っている。海が目の前に広がる。お地蔵さんに手を合せると海に向かって手を合せる形になる。松原の無くなった青い海は遠くまで霞み、何処までも穏やかだ。震災の日の波が押し寄せる光景を思い出して、目の前に見る今の景色との余りのギャップに改めて驚く。虚しさと呆然とする思いと、涙がこみ上げた。

 JR気仙沼線は何時復活再開するのだろう。そう思いながら、道の駅に戻って住民の足はどうしているのかと店員に尋ねた。鉄道に変って、今はJR石巻線の前谷地(まえやち)駅に近い柳津(やないづ)気仙沼(けせんぬま)間をバスの高速輸送システムが走っていた。また震災で亡くなられた方を慰霊するために海の見える丘に石碑が建てられ、そこは「鎮魂の森」と呼ばれていると言うことだった。私はそれを聞いてちょっぴり安心した気持ちでバスの高速輸送システムが走る国道四十五号線を気仙沼に向かった。

 

 気仙沼と言えば、私には、あの震災の津波による被害と共にテレビに映し出された燃え盛る夜の街や山の光景が思い出される。復興の状況がどのようなものかと思いながら海岸沿いに車を走らせた。想像していたより街が整い初めていた。通過してきたところが盛り土と護岸工事だけの印象が大きかっただけに、商店の入るビル等が整い始めているのが私の気持ちを和らげた。

 十年前に食材を買った「お魚いちば」という店はこの辺だったろうかと思いながら駐車場に自家用車を停めた。入口近くに大漁旗がはためく二階建ての建物に入った。中では幾つかの商店が営業していた。海産物と生きた魚の入った水槽と土産用の商品が並ぶ店を見て歩きながら、買わずともこれでいいのだと一人嬉しくなった。

 駐車場に戻る途中、気仙沼市ガス水道部と書かれたライトバンの傍に立つ作業服の二人連れに出会った。声を掛けた。

「復興は大分進んでいますね」。

「お陰様で。でもインフラ整備がまだまだです。復旧困難地域があって、浜通りや市場前等のガス供給の整備が遅れています。住民の方々が困っている一つです」。

 見ず知らずの私に応えてくれた。見た目には分らないことたった。私の満足感が一遍にしぼんでしまった。