(サイカチ物語・第8章・遂志・17)
日和山から見た石巻市内は震災の爪痕がそれほど感じられなかった。しかし、山を下りて石巻港近郊の道に入るとその思いは違った。どこもかしこも津波被害の大きさを語り、今も工事現場だ。自家用車に搭載したナビさえ渡波から牡鹿半島に至る道案内の用を足さない。給油のために寄ったガソリンスタンドで牡鹿半島に抜ける今の道を聞く始末だ。
半島入口の祝田を通るとき腕時計は午後三時を少し回っていた。今日の宿に一直線に行こうと決めた。途中々々の港は何処も震災からの復興工事が続けられていた。宿は鮎川港から東に行った高台にあるホテルニューSに一室を確保してある。全室金華山を一望出来るとホテル案内にあったので選んだ。おしか家族旅行村オートキャンプ場の宿泊は十年前の思い出を壊しそうで避けた。実際、ネットの情報では石で竈を作ってのキャンプは、芝生の養生等のためしばらく禁止されているらしい。
二十日。朝食を済ませて朝八時にホテルを出発した。寄った御番所公園からの眺望は相変わらず素晴らしい。三百六十度の視界を楽しんだ。そこから家族旅行村のオートキャンプ場を右に見ながら素通りした。コバルトラインから女川駅に向かった。
女川の町は新しい商店街と、道路を挟んで反対側に整備されたモダンな新駅舎が目を引く。駅は高台に移されて二〇一五年三月に開通していた。駅側の公共駐車場に自家用車を停めて周辺を歩いて見る。信号を渡り綺麗に整備された商店街を海に向かって下った。十年前に朝食を摂ったコンビニはどの辺だったろう。分からない。あの日に女川の町も街並みが壊滅状態だったことが分る。一軒の家も見られない海辺は広い土地で盛り土と護岸工事が続いている。
十年前に訪れた古城巡りの地で、私の心にショックがより大きく広がったのはこの女川の町からだった。港は、古来、海の幸を求めるだけでなく山の幸を他所に運ぶ海運業を発展させてきた。どの港も内陸から流れてくる大きな河川を抱え人家が集中して繁栄してきた。しかし、震災ではその河川が逆流した津波に襲われ、女川を始め雄勝、追波、吉浜、相川、志津川、歌津、本吉、大谷海岸と、行くところ行くところで被害を大きくさせていた。国道道路脇に「過去の津波浸水区間ここまで」と津波が押し寄せてきた高さを何メートルと表示した鉄柱が目立った。その表示のある海岸線と河川の側は何処もかしこも人家が見え無いのだ。震災から六年も経つのに重機が唸りを上げて盛り土と護岸工事を続けている。自家用車を走らせながら、腹立たしさと悲しみが新たに込み上がる。ダンプカーが怖いほどのスピードで行き交う。
神割崎キャンプ場に着いて幾分ホッとした。コバルトブルーの海と巌に砕け泡立つ白い波、濃い緑の松林は健在だ。私の気づかない所で震災被害はあったハズだけど、景観が大きく変っていないことに安堵した。周辺を散策して海の青さと松林とキャンプ場の芝生の緑を堪能した。そして十年ぶりにタコ味噌担々麺を口にした。