(サイカチ物語・第8章・遂志・16)

 

 玄関前の呼び鈴を押した。出てきた人の顔を見て十年前と同じ桑島さんだと微かに思ったけど、私の記憶は確かではない。ましてや桑島さんが十年前の高校生の私を覚えているハズもない。初対面を装い、名刺を出して葛西一族を調べている事を伝え協力をお願いした。快く引き受け、玄関口の家の中から丸椅子を出したのは十年前の時と同じだ。

 そして、驚いた。今はこの家に誰も住んで居ませんと言う。

「年に数回家屋に風を入れるために来ます。娘の所に身を寄せて居て、今回も滞在一週間で二十四日の土曜日には今住んでいる横浜の洋光台に帰ります、たまたまの出会いですね」。

 白髪が増えているけど、十年前と変わりない丁寧な口ぶりで近況を語った。聞けば、一人で来たのだという。

「今は須江山の惨劇を知る人も、葛西晴信やその家臣の歴史を知る人も地元の人でさえ殆ど居なくなりました。私もこの地を離れましたものね」。

 そして、たまたまの日の出会いですけど、尋ねてくれた熊谷さんに私の方がお礼を言わないといけませんねと謙虚な挨拶だ。私は、十年ぶりの懐かしさと打ち解けやすい桑島さんの姿勢につられて自分の近況を語った。

「埼玉県の所沢市に住み、大学で日本中世史の研究の糸口に手を出したばかりです。中世に滅亡した葛西一族の領地が私の生まれ故郷であり、研究の対象の一つにしております」。

「生まれた所?」。

「はい、藤沢の町になります」。

「葛西一族を調べに来た?」。

「はい。葛西一族の滅亡と伊達政宗、その時代がどういう時代で、何があったのか、大変に関心のあるところです」。

「それで、態々(わざわざ)来た?」

「中世に(豊臣)秀吉の権勢が東北地方にどの程度及んでいたのか、米沢を追われた伊達政宗がどのようにして仙台を繁栄する地に築いていったのか、また、東北地方へのキリスト教の伝来、普及の歴史、隠れキリシタン・・・調べたいものがこの地、周辺にもゴロゴロ転がっています。それに私事ですが、桑島さんが横浜にお戻りになるという二十四日には郷里の藤沢町で私の結婚式が待っています」。

 少し驚いた顔をした桑島さんだったけど、ニッコリとして見ず知らずの私に祝いの言葉をかけてくれた。

「それは、それは、おめでとう御座います」。

 サンダルを長靴に履き替えた桑島さんが案内の先に立った。山に向かって緩やかな道を十メートルほど付いて行くと、一段高くなっている平坦地は一面くるぶしまでの草丈だ。十年前の夏と変わりない。左手の殿入沢は今もちょろちょろと水が流れていた。足下のここが須江山から逃げてきた城主等の自刃の場と思うと、改めて心の中で南無釈迦牟(なむしゃかむ)尼仏(にぶつ)(葛西氏は臨済宗)と念仏を唱えた。

 沢と反対側の山の急斜面に五十段程の石段は今も残っていた。桑島さんは私が初めてこの地に来たと思っておられる。

「伊達の領地に変ったこの土地で、伊達政宗に殺された葛西一族の霊を表立って慰めることは出来ませんでした。だからご先祖様はお墓の代わりに氏神様の祠を借りて須江山に散った死者の御霊(みたま)を慰霊してきたのです、それが四百年も続いているのです」。

 変わりない丁寧な口ぶりで説明してくれた。だけど階段の先に祠が見えない。続いた桑島さんの説明に納得した。

「風雨にさらされて古くなった急斜面の石段を上るのは年寄りに危険です。人の方が年老いて階段を上ること事態がきつくなりました。祠を山の斜面から今の地に移したのです」。

 移す際には神主を呼んで祝詞(のりと)を奏上し、祠を新しい物に置き換えたという。長屋門をくぐって左に見た祠だった。

須江山への登り口はもっと変っていた。いや変わり果てたという表現の方が正しいだろう。雑木と蔦や笹竹に覆われて登り口が何処か分らないほどに藪と化していた。桑島さん自身ここ数年は須江山に上っていないという。私も桑島さんも相当な覚悟と経費負担がなければ回復は難しいですねと意見が一致した。それどころか、次に続いた言葉に驚いた。

「今見えるこの山の後ろは新興住宅地と採石場に変っています。東日本大震災で被害を受けた石巻や女川等の港や河川の復興工事に須江山の砂利と粗石と土が使われているのです」。

石巻に出るのなら、もう一度後ろに戻って反対側の道を通っても石巻に行ける。そこから変貌していく須江山の姿を見ながら行かれるのも良いでしょうと言う。 

 丁重にお礼の言葉を述べさせていただいた。石巻に向かうのに反対側の道に廻った。コンビニの前を通ると、右に見えてきた須江山は中腹に新興住宅の屋根々々を見せ、そこからさほど離れていない場所で大きくえぐられた山肌が痛々しかった。