(サイカチ物語・第8章・遂志・15)

 

 十九日、昨日に続いて良い天気だ。予定通りに高校三年のときの古城巡りの行路を父の自家用車(くるま)を借りて一人で巡る。

「行ってくる」。

「大事な身体なのよ,気を付けてね」。

 母の見送りに、窓ガラス越しに笑顔で応えた。十年経って古城等はどうなったのか、保存はどのように変化していくものなのか、それも一つの勉強だ。ただ今回は、それよりも気になるのがあの東日本大震災からの復興の状況である。自家用車(くるま)は快調に走る。

 あの震災は私が大学生四年になろうとする春に起きた。その時、私は春休みで帰郷していた。自分の家の大きな揺れにも驚いたけど、その日を境に連日、テレビや新聞で報道される海沿いの被害状況にショックが大きかった。三年前の古城巡り、キャンプ場巡りをした海沿いの町々の被害状況がテレビに映し出される度に、あそこが、という思いがした。石巻(いしのまき)牡鹿(おしか)半島(はんとう)の港も女川(おながわ)の町も、南三陸町(みなみさんりくちょう)大谷(おおや)海岸(かいがん)も、そして気仙沼(けせんぬま)もテレビに映し出される光景に驚くばかりだった。

 気仙沼や陸前高田(りくぜんたかた)大船渡(おおふなと)も小さい頃に父の運転する自家用車(くるま)で海水浴や新鮮な魚の買い出しに連れて行って貰った所である。私に出来ること手伝えることがあるなら、そういう思いから陸前高田市に二回、四日間ずつボランテアで参加した。

 震災から十日経って始めて陸前高田市に足を運んだとき、街が消えてコンクリートの基礎と瓦礫だけが残る海沿いの一面の光景にただただ驚くしかなかった。小高い丘の人家のあった方を見ると十数メートルも高さのある雑木や孟宗竹の枝先にいくつものビニール袋が引っかかったままだった。見上げながら、海の水がここまで来たんだと底知れない胎動する地球のエネルギーの強大さを思い知らされた。

 ボランテアの朝は薄明かりの中で家を出るのは良いけれど、信号機が復旧していない夜の山道の暗闇の中を帰る自家用車(くるま)は運転していて怖かった。そんな記憶が蘇る。あの十年前にキャンプ場巡りをした海沿いの町がどうなっているのか、震災から約六年経って今どのように復興したのか、それが気になってしょうがない。

 

 吉高地区を通り七曲がり峠から宮城県の米川、佐沼、登米市寺池の各町々を回った。それらの町は海沿いでもなく十年前と大きな変化はなかった。しかし、佐沼城を特徴づける堀、その堀跡の保存状態が良くなかった。土塁の一部が堀跡側に崩れたまま放置されていた。佐沼城復元絵図の看板の最後に書かれている迫町(はさまちょう)教育委員会に改善するよう連絡した方が良い。そう思いながら大判の日記帳にメモを記録した。

 秀吉軍と葛西軍が対峙した気仙沼線和渕駅近くの神取橋の周辺にも大きな変化はなかった。そこから石巻線の佳景山駅に回った。そこは、震災とは別に過疎化の問題が浮き彫りだ。駅の向かい側にあった酒店とクリーニング店は廃屋になっている。新聞販売所はそのままだったけど、コンビニは駅舎に向かって左側三百メートル先に移転と、それを知らせるベニヤ板が線路脇の柵にぶら下がっていた。

 須江山へは駅に向かって右の方向だと記憶している。踏切を渡って二、三百メートルも行くと信号機のある交差路に出た。十年前を思い出した。千葉さんが、あったーと叫んだ場所だ。

 道路の左側の「殿入沢入口」と書かれた標柱は新しい。覚えのある大槻但馬守平泰常殞命地の石碑はそのまま建っていた。側の空き地に自家用車(くるま)を停め、長屋門を目指した。桑島さんの家であり私有地であることは十年前に来て分っている。かつて見た殿入沢は今はどうなっているのか、お墓の代わりに祀りご先祖様の霊を慰めてきた氏神様の祠はどうなっているのか、そして須江山への道はどのように保存されているのか、凄く気になる

 長屋門に続いている庭の景色は大分変っていた。手前右に自家用車や耕運機を置いてあるのは前と変わりなかったけど、左側に茄子やトマト、ネギなどが植えられ家庭菜園の場が設けられていた。その菜園と家屋との間に飛び石を配した小路が造られ、見た目にも新しいと分る祠がその先に祀られていた。家の目の前の庭から続く山の斜面は剪定されたツツジや楓、紫陽花、松などの樹木が大きくなって造園美を増している。