(サイカチ物語・第8章・遂志・14)
彼から友として進路相談を受けたのがあの年の七月、その二ヶ月前のゴールデンウイークの最中に私もまた父母に、父母の期待を裏切り、文学の道を進みたい、歴史文学の方向に進むと宣言していた。家の中は弟や妹も巻き込んでの一大事だった。父母は当然反対した。口にして言わないけど自分の普段の仕事ぶりを見せることで私に医者の道を選択することを期待していたと言った。その時まで見たこのない、怖い顔をした父だった。
その父が何度かの私との話し合い、口論の末に、結局、自分のしたいことを仕事に選ぶ、準の人生だから、準の情熱を燃やせるものがそれだというなら反対しないと最終的には理解を示してくれた。
私はあの日、美希さんが亡くなってから三ヶ月、無反応に近かった及川君が突然食ってかかるように変貌したことに驚きながら、むしろ彼の目の奥に光るものを見た。何か訴えるものがあることに気づいた。彼は私を責めているのではなかった。自分がそうしたくてもそうできないという苛立ちを態度にしていたのだった。
思いもしない美希さんの死に直面し、考えるところがあったのだろう。及川君は、身は代わってやれないけど病気に苦しむ人の治癒に貢献する医者の仕事の素晴らしさを口にした。私は、その日、及川君に、君だって医者を目指せるよと言った。
私や私の父のアドバイスから及川君は全寮制で入学金や修学資金を必要としない自治医科大学の存在を知り、翌年の春、推薦入学学生の岩手県の第一次選抜試験に臨んだ。地域医療を担う人材を養成すると位置づけられた自治医科大学医学部には都道府県毎に選抜された学生が学ぶ。彼は約一年の努力が実った。彼が翌年入学した年の五月の連休に私が栃木の彼の寮に遊びに行ったとき、彼は、入学金や学費等経済的な負担の大きさから自分が医者を目指せるなどと考えも付かなかった、と言っていた。
千葉京子さんは、高校卒業後、仙台市内の短期大学看護科三年課程に進み、今は仙台市立病院の中堅看護師として活躍している。京子さんに会うのも大学三年の終わりの春休みにあの東日本大震災で陸前高田市にボランテイアに行った帰り、自家用車の中から偶然見かけて中町のバス停前で話し合って以来だから六年ぶりだ。私よりも梨花さんの方が女性同士でもあり、彼女と卒業後も仙台市内で会ったり、都内や都内近郊に宿泊付きで遊んだり、また正月や夏に故郷で会えるよう示し合わせて休暇を一緒に取ったりしたと聞いた。
岩城先生は古希を迎えた。私は大学院に進む前までは帰郷する度に先生の家に寄らせていただいていたけど、この五年間はすっかりご無沙汰している。大学四年の一度帰郷した時に私が訪問してお会いした先生は、自分なりに郷土の歴史研究を楽しんでいるよと言っていたけど、お会いしたのはその時が最後で近況は分らない。
式の翌日、二十五日の日曜日には梨花さんのご両親、祖父母の墓前に結婚の報告だ。その後、午前十一時に及川君、京子さん、千葉哲君、佐々木愛さん、梨花さんと私で大籠の郷土文化保存伝習館で待ち合わせ佐藤美希さんのお墓参りを予定している。彼女の墓前に一緒に六人が揃うのは、今は無い高校を卒業して以来、初めてのことだ。