(サイカチ物語・第8章・遂志)

 

 梨花さんに見送られ午後一時前の東北新幹線はやぶさで帰って来て丁度一週間になる。梨花さんと一緒に大宮の駅構内で朝食兼昼食の食事を摂り、私は職場の同僚達に配る草加せんべいを買った。田舎に帰省したときには何時も一関駅売店で南部せんべいをお土産に買う。比較してみたい、自分も味わってみたいと思って草加せんべいにした。

 

 同僚達の口に草加せんべいは既に消えている。今日は五月八日月曜日。朝の引き継ぎが終わり業務日誌を受け取って夜勤だった同僚にお疲れ様と言ってから、看護師長に休暇取得日の希望日を申し出た。希望日申告の期限は十日となっている。友人の結婚式に参列するため帰省する六月二十四日の土曜日と二十五日の日曜日、それに上京する七月二日の日曜日は必ず勤務スケジュールに私の休暇を組み込むよう頼んだ。  

 

 七月二日は東京の池袋にあるT方会館という結婚式場で熊谷君と梨花さんの結婚披露宴が予定されている。二人は田舎で親戚を中心に結婚式を挙げるけど、東京では熊谷君が研究職場に関わる人、梨花さんが勤める小学校の同僚、校長先生等を招いて披露宴を行うことになっている。そこでも及川君と私が司会を務める予定だ。七月二日は朝早く仙台を出て、夜には戻る。とんぼ返りになるけど人手不足の折で仕方が無い。頼んだところで看護師長からすぐ看護部に行くようにと言われた。

 エレベーターで三階に下りて看護部の部屋を覗くと、席を立って看護部長と看護科長が目の前に並んだ。部長のお言葉だった。

「来月、六月十二日の月曜日から十六日の金曜日までの五日間、救命救急、災害派遣医療チームDマットの研修を受講するようにして下さい。看護師長には事前に伝えてあります」。

「はい」。

 自分でも返事が上ずったのが分かった。救急医療や災害派遣に携わるための研修受講を薦められて断ることは無い。あの東日本大震災にかかる先輩達の活動報告をスライド等で観ているだけだったけど、私は、自分も平時と異なる看護の対応を期待されているんだと思うと誇らしく思えた。研修の受講を承諾した。

 

               三                   

 平成ニ十九年六月。

 あれから十年余が過ぎた。私は、やっとこの四月からまともに給料を貰える処遇になって身を固めることにした。五年ぶりに帰ってきた家は父母の顔を見るまでもなく懐かしい。医院の入口前の診療案内板は少し色が剥げている所もある。

 玄関口に回って家に入ると、迎えに出た母と新聞に目を通していた父の二人の揃った居間で、電話ばかりの音沙汰で済みませんでしたと長い間の不孝を詫びた。

 篤も、由美も家を出ている。通いの看護師もいるけど、実質、父母二人だけの医院の経営だ。

 二階に上がって、高校生時代に自分の部屋にしていた部屋に荷物を解いた。私が大学に進学した後、弟の篤が引き継いで使った部屋だから壁に貼られたままのものも本棚の中の参考書も図書も篤の物が多かった。それでも久しぶりに見る部屋は懐かしく感じられる。 

 ラフなカジュアルシャツに着替えて階下に戻ると、子供の時によく食べた母の手作りのハンバーグと野菜サラダと、ワカメの酢の物が待っていた。

「昼食を摂ったら墓参りに行こう」。

「このシャツの格好で良いかな?」。

「ああ、構わないよ」。

 日曜日とはいえ父母の状況は十年前と変らないだろう。むしろ町民が高齢化しているだけに父の提案に急患が入らなければ良いがと思う。父も母も頭に白い物が増えている。父の言葉に甘える事にした。

 

 気仙沼にある熊谷家累代の墓から分骨して祖父母の眠る墓だ。博士号をいただいた、今度結婚することになったと報告した。

町の人々は上町(かんまち)にあるという所在地から普段は上寺(かみでら)と呼んでいるが、お寺の正式名称は松尾山(えん)融寺(ゆうじ)だ。この寺は当初、館沢山(えん)融寺(ゆうじ)と称し葛西氏の祈願所として開かれたが葛西氏の衰退とともに自然廃滅したと藤沢町史にある。また、町の歴史を語る藤沢本郷風土記の文明三年(一四七一年)にも、山号も改められて松尾山阿弥陀院円融寺として再興されたとある。時代が変っても江戸時代までこの町地域の城主の祈願所として歴史を重ねてきたと記録されている。

 私は旧名の館沢山という山号が気になった。中学生の時まで「館沢」という苗字を持つ同級生が複数人居た。地名と苗字の繋がり、ルーツ、久しぶりの境内を巡りながら、そんなことを考えた。

 

 戻り道を歩みながら、ここが千葉酒店、千葉京子さんの家、先の信号を左に曲がれば町民病院に行く。かつての岩手県立藤沢高等学校のあった愛宕山にも上れる。そう思いながら腕時計を見るとまだ午後三時前だ。