(サイカチ物語・第8章・遂志・7)

 

 着いた千葉市立郷土博物館は天守閣を持つお城だった。鎌倉時代の千葉介常胤をイメージして行ったから近世的なお城建築に違和感が沸いた。周辺は公園になっていて止んだ雨に木々も路面も濡れていた。

 入館は無料だった。館内に入るとロビーの右側に高さ百二、三十センチ、横幅百センチ程の千葉介常胤だという木彫りの座像が置かれていた。鎌倉時代初期を想像して作られたのだろう烏帽子(えぼし)姿に口髭(くちひげ)を蓄えていた。梨花さんが、着ている衣服は水干(すいかん)だと言う。きっと熊谷君の影響だなと思った。彼と一緒に訪ねた歴史関連の旧跡や古城は多くあるのだろう。

 二階は常設の展示場になっていて火縄(ひなわ)(じゅう)や刀剣、甲冑(かっちゅう)、馬に乗るときの(あぶみ)など平安末期や鎌倉時代の物が並んでいた。ガラスの展示ケースに古文書が並べられていたけど、達筆過ぎて崩された字は私には読め無い。三階、四階も一部が展示室になっていた。公園内にある常胤の騎馬像や(いの)(はな)城址の石碑、四季折々の草木等に掛かる写真のギャラリーになっていた。

 五階が天守閣部分で東西南北から雨上がりの千葉市街が遠くまで見えた。西に千葉湾も東に太平洋も見えた。南の先は房総半島だった。

 二階に戻って販売コーナーを覗いた。数年前に出版された物も含めて歴史関係の刊行物一覧が表示されていたけど、「源頼朝・義経と千葉介常胤」A四判完売、「源頼朝と関東の御家人」A四判完売、「資料に見る千葉氏―史実と伝承」A四判完売とあって、残っていた物で買いたいと思ったのは「東北千葉氏と九州千葉氏の動向」B五判だけだった。それでも歴史好きの父への十分なお土産になると思った。六月には熊谷君と梨花さんの結婚式のために一時帰省する。その時の父への分と古希を迎えた恩師岩城先生への分と、そして自分の分として同じ物を三冊購入した。

 外に出ると、公園の芝生や梢は雨に濡れていたけど歩道は舗装されていて歩くのに苦にならなかった。時折、残って吹く北風にホコリが立たなくてかえって良かったかも知れない。博物館で入手した公園マップを手に公園内にある亥鼻城址の碑と、常胤が頼朝にお茶を献じるために使ったと伝わる井戸跡に行ってみた。亥鼻城址の石碑の前で梨花さんが、ここが京子ちゃんの祖先の、祖先の祖先、ルーツかもねと笑顔を見せながら言った。

 そして豊臣秀吉の小田原攻めの時、千葉氏当主、千葉重胤(しげたね)は北條方だった。一族郎党を率いて小田原城の籠城(ろうじょう)に参加していた。そのため小田原城開城と共に四百七十年余続いた千葉氏一族も今の千葉市から房総半島一帯の所領を没収されて滅亡したと言う。豊臣秀吉の奥州仕置きにより岩手県南部から宮城県北部を治めていた葛西一族、千葉一族が滅亡しただけで無く、小田原攻めの後の秀吉の関東仕置きで本家本元の下総、上総を治めていた千葉一族も滅亡していたなんて、初めて知って驚くばかりだった。 

 梨花さんの話を聞いているうちに、葛西晴信と葛西一族の滅亡は千葉一族の滅亡でもあると言った十年前の岩城先生の言葉が思い出された。

 途中、公園内にあった千葉開府800年と850年の記念碑の前で梨花さんにスマホのシャッターを押して貰った。曇り空のままの夕暮れに気温も大分下がってきたなと感じた。

 

 帰りはJR千葉駅までタクシーを拾い、千葉駅午後六時十二分発のJR総武線快速で東京駅に出た。大正時代初めの創建当時の形に復元されたという、まだ見たことの無かった東京駅丸の内口の駅舎を見たくて梨花ちゃんに付合って貰った。

 道を隔てて東京駅の真向かいに建つ近代的な丸の内ビルの傍に立った。梨花さんが、ここからだと東京駅が丸見えだと案内してくれた。何時かテレビで見たライトアップはされて無かったけど、夕闇に赤色のレンガとそれを縁取る白い筋の壁が左右に大きく広がる三階建ての駅舎は大正ロマンのレンガ造りの美を強調しているように見えた。切妻式の屋根を持つ皇族専用出入口だという中央口や尖塔のあるドーム式の屋根を持つ北口、南口駅舎など何枚か写真を撮った。周りはネオンが点灯するビル街になっていた。ヘッドライトを揺らして目の前を行き交う車が忙しげだった。

 

 その後、梨花さんに東京駅よりも有楽町駅の方に近いという小洞天(しょうどうてん)という中華料理店に案内してもらった。昼食が鰻重だったことを考慮して野菜中心の前菜盛り合わせと麺類を頼んだけど、梨花さんがこのお店の売りはシュウマイだという。勿論注文した。一個の形が他のお店の三倍はあるだろう。大きくて美味しいシュウマイだった。二人でお互いにお疲れ様と言って生ビールで乾杯した。ジョッキーがカチンと快い音を立てた。