(サイカチ物語・第8章・遂志・5)
私は、郷土にまつわる歴史として坂上田村麻呂の蝦夷征伐、八幡太郎源義家の奥州での活躍、奥州平泉文化の藤原三代、伊達政宗、奥の細道の松尾芭蕉のことは中学でも高校でも日本史の授業の中で習った。しかし、鎌倉時代から四百年も続いた葛西一族のことは小中高の授業の中でも無かったし、郷土の町の人々の口に語られることも無かった。あの須江山の惨劇以後、伊達政宗の統治によって徹底して隠された歴史だった。
父譲りの歴史好きの血が昂じて、行って見たいというだけで無く、自分の郷土に関連した事として何時か葛西一族について誰にでも話せるように機会があれば葛西清重や千葉介常胤のゆかりの地を歩いてみたいと何時も思っていた。以前にも梨花さんと鎌倉に遊びに行ったとき、頼朝ゆかりの鶴岡八幡や若宮大路、建長寺等巡りの最後に鎌倉市の扇ガ谷の浄光明寺にある千葉介常胤の墓をお参りした。
葛西神社は、JR金町駅前から歩いて一キロ程の江戸川沿いに位置していた。所沢から池袋、西日暮里、金町駅と電車で回って一時間二十分程だった。日曜日で、これでも平日の通勤帯より人の数は少ないと梨花さんは言ったけど、車内や乗り換えの駅構内の混雑ぶりに、やっぱり東京だなと思いながら閉口した。
曇り空だったけど若葉が目に染みる木々の中に重厚で厳かな社殿が有った。葛西清重の信仰が厚く香取神社の分霊を祀ったのが始まりと縁起の紹介に有り、平安時代末期や鎌倉時代に葛西神社は香取宮と称されていたと知ることが出来た。
社歴を伝える古文書の香取文書には香取造営次第、葛西三郎清重と記録されているという。また平安時代末期の葛西領は今の東京都葛飾区江戸川区の全域と墨田区、江東区、足立区の一部に及ぶ広大な土地であったと知って葛西清重とその一族の権勢って、凄いと思った。
同じ境内に厳島神社や三峯神社、稲荷神社、天神社など十もの神様が祀られていた。それと、この葛西神社の囃子が神田明神や深川明神の祭囃子や秩父、川越から東北地方、東海地方の祭囃子の起源になっていると知って驚いた。今も葛西囃子保存会が有って東京都の無形文化財になっているという。
一時間ほど境内を見て廻って、道路を隔てて目の前にある江戸川の土手に上った。風が少し吹いていたけど目の前に広がる河川敷と河幅のある江戸川の流れ、対岸の千葉県側の河川敷と土手、そしてビル群と江戸川に掛かる橋、左右を見ても正面を見ても遠くまで広々と見える景色のスケールの大きさに私は絶句した。土手の遊歩道を犬を連れて散歩する人、ランニングする人も居れば、すぐ目の下の河川敷に整備されたサイクリングロードを列を組んで疾走する人も居る。
私と梨花ちゃんは駅前で手にした観光案内マップに従って土手道を柴又帝釈天まで歩くことにした。途中、土手の若草に寝転んでいる人を見て、テレビの中の映画で見たフーテンの寅さんの一場面を思い描いた。土手周りに倍賞千恵子演ずる寅さんの妹さくら、佐藤蛾次郎演ずる半纏を着た義弟雄二郎、側に停められた自転車。そんな場面があったような気がする。まるで自分が、歩きながらその映像の世界に入っているような感覚だった。