(サイカチ物語・第8章・遂志・4)
廃校になる高校の最後の卒業生。それだけで何か思い出を作りたい。何か記憶に残ることをしたい、私にはその思いが常にあった。あの夏に梨花さんや美希さんと一緒に藤沢野焼き祭りの会場でよさこいソーランの踊りを披露したのも、ツーリングに行ったのも、キャンプを体験したのも、あの時で無ければ出来ないことだった。それから四か月後、一緒に行った佐藤美希さんが十二月に若年性乳がんで死ぬなど、想像もできなかった。
藤沢町での二人の結婚式翌日の六月二十五日、日曜日に四人で美希さんのお墓参りに行く。新婚旅行の予定が無いからと梨花さんの提案だ。当日、午前十時半に私の生家に梨花さんと熊谷君が自家用車で迎えに来る。及川君は自分の生家に一泊して、それから直接、同じ大籠地区でもある藤沢町郷土文化保存伝習館前に行くと言った。当日の待ち合わせ時間を午前十一時とした。
結婚式の進行の打ち合わせは、コップ一杯の水で粘った思い出話の後になった。私と及川君が結婚披露宴参列者の受付も兼ねる。その後の新郎新婦入場とか、乾杯、ウエデイングケーキ入刀、二人のお色直しやキャンドルサービスの司会の仕方とか所要時間等を打ち合わせしているうちに、自分も早く結婚しなきゃって気持ちになった。
二人は今自分達が何をしているかを紹介して、見守って欲しいと伝える場にしたいと言った。披露宴に参列するのは田舎にいる熊谷君の親戚と、熊谷君の生家周りの親しい近所の方々と聞いている。仲人は熊谷君の父方の伯父さんで新郎新婦の紹介は簡単になると言う。友人として高校時代の同級生だった佐々木愛さんが北海道から駆けつけ、地元藤沢の町で酪農を営む千葉哲君が参加すると知った。
今では当たり前みたいになっている最後の場面、親への感謝の手紙、花束贈呈は如何するのと思ったけど私は口にしなかった。梨花ちゃんが小さい頃に交通事故でご両親を亡くしていること、育ててくれた祖父母も既に他界している事を知っている。だけど、進行のプログラムにはその場も設定されていた。
天国にいる父母と祖父母に感謝を言いたいという。思わず梨花さんの顔を見た。彼女は心の中にはいつも父母が居た、祖父母が居たと語った。私との親しいお付き合いの中でもそれを一言も口にしていなかった。それだけにあの時、それを聞いた時、ぐっと来た。
披露宴の流れと、それぞれの場面の所要時間等の打ち合わせに二時間を要した。借りたお店の個室は午後三時半までの四時間の予約とかで私達は時間通りにお店を後にした。お店を出てすぐ、及川君は六月が楽しみだと言って、また会おうと手を振った。これからまた勤務先の病院に戻ると言った。
私達三人は大宮駅から埼京線で武蔵浦和駅に行き、そこから武蔵野線で新秋津駅というところに行き、徒歩五分で西武池袋線の秋津駅に回って一緒に所沢駅まで行った。初めてのことで、次に来た時にこの経路を私一人で辿れるのかしらと思った。
所沢駅で西武新宿線に乗替え、小平のアパートに帰るという熊谷君を梨花さんと一緒に見送った。その後、私は梨花さんの住む所沢市内の賃貸マンションに二泊させて貰った。
初めて訪れる住まいだった。二人の新居になるとのことで既に熊谷君の荷物の一部が運び込まれていた。梨花さんは熊谷君の本が多すぎてと言って笑った。将来、一戸建ての家でも確保しないと本のために寝るところが無くなるとも言った。
最初の夜は寝物語に梨花さんと熊谷君のなれそめや交際の経過を聞いたりしたけど、熊谷君が後期大学院に進むときに語った不安の聞き役になったことや、博士号が取れる論文が書けるかと不安と焦燥感を募らせる彼を側で見てきたと言う。それを聞いて、熊谷君には梨花さんが必要だったんだ、やっぱり梨花さんが伴侶に相応しいと思った。
仙台を出る前からの約束で、翌日の日曜日は朝食を済ますと午前八時も前に梨花さんと一緒にマンションを出た。東京都葛飾区にある葛西神社と葛西清重の墓を見て、それから午後に千葉市立郷土博物館に行くことにしていた。豊臣秀吉の奥州仕置きで没落したと歴史に残る葛西一族。その祖先である葛西清重ゆかりの葛西神社やお墓が葛飾区にあることも、葛西清重といとこの関係にあった奥州千葉一族の祖という千葉介常胤とその時代の物を常設して展示しているという千葉市立郷土博物館のことも、梨花さんが熊谷君に教えられて私に入れた情報だった。