(サイカチ物語・第8章・遂志・2)
二
私は、ゴールデンウイーク前半に三日間ほど休暇を取って東京に行ってきた。慢性的な人手不足から夜勤のある病棟勤務でまとまった休暇を取るのは容易では無い。でも、ここ二ヶ月、同僚や後輩が希望する休暇日の取得を優先するよう勤務ローテーション作りに協力したことと、早くから休みたい三日間を伝えてあったことから看護師長が私の土日月の三連休取得を考慮してくれた。私は看護師になって七年目になる。
梨花さんから電話で教えて貰った大宮駅東口の喫茶店で土曜日の午前十一時半に待ち合わせた。ボンボンバザールというその店は駅近のビルの一階にあり場所はすぐ分かった。
大宮市内にある自治医科大学付属さいたま医療センターに勤務する及川君が駆けつけ易いだろうと、梨花さんが調べて選んだというその店は個室が有り、食事も出来る居酒屋風でもあった。
外来診療が無い休祭日とは言え、及川君も病棟の回診や救急対応のローテーションに組み込まれ恐らく時間を空けるのも連続して休暇日を取るのも大変だったろう。
あの日、店員に案内されて約束時間の十分前に個室を覗いた。三人は先に来ていた。所沢市内に住む梨花さんと所沢駅で待ち合わせて一緒に来たという熊谷君は所沢の駅からこの店までは約一時間だという。私は仙台駅から大宮駅まで新幹線で一時間半程だ。仙台から駆けつけるのと大して変わらない所要時間だなと思った。
及川君に会ったのは高校卒業以来だ。正確に言うと、高校三年の冬、大籠キリスト教会で佐藤美希さんの葬儀があった十二月二十五日、クリスマスの日に言葉を交わすこともなく彼の姿を見て以来だった。
佐藤美希さんは病気が若年性乳癌と分かって僅か半年後に亡くなった。彼女の死はクラス仲間というより最後の三年生全員にとっても先生方にとっても驚きだった。ましてや及川君にとって幼馴染みであり、小学も中学も高校も同じ学校に通い、好きだった彼女の死だ。私達が考える以上に相当なショックだったろう。
彼は美希さんが亡くなって以来、年が明けても不登校のまま、卒業式さえも欠席した。藤高新聞の最終号に商社マンと将来の目標を書いた彼だけど、その後、自治医科大学に学び医師になったのは美希さんの死がキッカケだったのに間違い無い。
あれから十年の歳月が過ぎている。目にした及川君は高校時代よりも肩幅も広がり一層ガッシリして逞しく見えた。頭髪が高校時代の五分刈りからごく普通の髪形に変わり、白ワイシャツにネクタイ無しの紺の背広姿だった。側に置いた革製の鞄は長方形で蓋の部分が丸みを帯びている蒲鉾型で聴診器等医療器具が入るお医者さん専用の鞄だった。
熊谷君に会ったのも六年ぶりだ。彼が大学三年の終わり、あの東日本大震災の時にボランテイァで陸前高田市に通っていると言った平成二十三年の三月末以来だ。私はあの時、看護師になる国家試験を受験したばかりで看護専門学校の卒業式を終えた後だった。四月から仙台市立病院に勤務する事が決まっていて、近況報告と父母の顔見たさに一泊二日で藤沢の町に帰った時の、町中のバス停前でのたまたまの再会だった。
熊谷君は四年を終わったら大学院に進学する予定だと、あの時にも研究している日本の中世史等の歴史について情熱を持って語った。高校生時代、誰もが熊谷医院の後継者として医学部に進むと思っていたのに、刷り上がった藤高新聞最終号に掲載された私達の将来の夢、目標欄の彼の写真の左横には歴史文学関係の研究者とあった。アンケート調査を纏めた三人なのに、及川君も私も彼が医師志望から変更したことを一言も聞かされていなかった。彼の進路変更に岩城先生の影響があった事は間違い無いだろう。私は当時、熊谷君は家族をどう説得したのだろうと思った。
その彼が大学院も終えて博士号を取ったこと、この四月から引き続き大学に残り職員として研究を続けることになっていると梨花さんからの結婚報告と同時の電話で知った。
熊谷君は今は眼鏡を掛けていた。頭髪が幾分長めで白地に細い黒ストライプの入ったワイシャツのノーネクタイ、グレー系の背広姿で、梨花さんの好みが入っているのかしらと思いながら学究者と聞けばなるほどと思うような容姿だった。