(サイカチ物語・第7章・旅立ち・18)
もう、夜も十一時になる。まだ家の明かりが漏れていた。例年、俺ん家のクリスマスの日は夕食の後にケーキを囲んで過ぎた今年のことを話し、来年はどんな年になれば良いねと語る団欒の場だ。いつもと違ったけど四人が俺を待っていて呉れた。
父や母、弟妹の顔を見ると、緊張が解けたのか空腹感が襲ってきた。夕食を摂って居なかったことに初めて気づいた。母が俺の夕食を準備してくれた。
体験してきたばかりの美希さんの葬儀のことを言うと、父は死後洗礼はカトリックにだけ認められていると言った。そして、また俺の知らないことを交えながら語りだした。
「この藤沢の町には十二のお寺があるけど大籠地区にはお寺がない。葛西晴信の代に伝播したキリスト教が慶長年間、一五九〇年頃から一六一五,六年頃、炯屋に働く人々に急速に広まった。隣人を愛せよ、人は皆平等、キリストを信じれば天国に行ける、極楽に行けるという教えは当時の人々に取って念仏を唱えて来世の極楽往生を願う仏教より有り難かった。カルチャーショックだったろ う。
その頃に大籠地区にあった大聖(松)寺というお寺は破却され、住職は追い出されたと記録されている。藤沢町史に載っているよ。以来約四百年の間、現代に至るまで大籠地区にお寺は復活していない。
伊達政宗の代に三百九人もの人々が処刑され、殉教者を出した地区だ。隠れキリシタンの里と言われるように人々は位牌の中に安置したマリア像とか、位牌の屋根笠の裏に隠して書いた十字架とか、掛け軸の中の聖徳太子の髪を結ぶ紐を十字架にしたとか、密かに拝む物を工夫して信仰し続けた。それがあの大籠殉教者公園のキリシタン資料館に残されている。
美希さんがどうして死の直前に洗礼を望んだのか分らないけど、病気になったからではない。きっと小さい頃から感化されるようなことが何かあったんだろうね。
美希さんのお父さん達が何処かのお寺の檀家だったとしたら、美希さんのキリスト教の洗礼を受入れる、認める、その心の広さを讃えるべきだろうね。信教の自由は誰にも抑えられるものではない」。
父の話に母も俺達兄弟も聞き入った。例年、賑やかなクリスマスが、美希さんの葬儀から何かを教えられる日になったような気がする。
夜も深けて午前零時近かった。風呂に入って床に就きながら、明日からまた勉強に集中しよう。受験が目の前だ。そう思いながら俺は及川のこれからが気になった。
次回から最終章(第8章)・「遂志」になります。これまでのアクセス数の最高は1日に148でした。長編ですので度々、日に100を超えるアクセスう数がありましたが、アクセス数に一喜一憂している小生です。で、お読みくださる皆様が何日分か纏めて読んでくださっていると分かったのはごく最近です。
残り400字詰め原稿用紙にして約40枚、最後までお読みくださるようお願いいたします。



