(サイカチ物語・第七章・旅立ち・1)
第七章 旅立ち
一
文化祭が終わってもう二週間になる。とうとう今朝の最低気温は零下になった。日中の最高気温も一桁の予想だ。北風が窓を揺する。厳しい冬の訪れが着実に進行している。
机に向かって一時間もしない、午前十時に少し前だった。及川からの携帯電話だ。文化祭が終わって今は彼と学校で会って話すのは勉強の進捗状況や参考書の貸し借りが主だ。しかし、今朝は最初から様子が変だった。基本に戻って英語のドリルがどうのとか、数学のドリルがあるかとか、今さら中学生に戻っての勉強でもあるまいし、俺はどうしたと聞いた。及川は自分で話しかけていながら急に言葉に詰まって話が途切れた。
「気分転換に俺の家に来るか?」。
電話の向こうで黙っている。何時もの快活な及川にしては珍しい。俺は、しばらくじっと待った。そして、及川の元気のない声だった。
「美希が転移した」。
最初は何のことだ、何処かに引っ越した?と思った。想像もして居なかったから移転と転移を聞き間違えた。美希の癌が転移したと理解するのに少し時間がかかった。
「美希さんの転移って?若しかして癌の転移?」。
「うん」。
「えっ、何処に、なんで、なんで分った?」。
俺も信じがたい気持ちで慌てる聞き方になった。
及川の話だと、十四日の外来、何時もの水曜日の抗がん剤治療の点滴を受けた日に医者から美希に転移が告げられたと言う。だとすれば、当然その前の週辺りに検査をしていたはずだ。俺は、素人の思い込みで勝手にそう思いながら、及川に聞いた。
美希は十四日に学校を休んで病院に行き、風邪を引いたみたいだ、咳が取れないと医者に伝え診察を受けたのだという。急遽、検体検査、放射線の再検査が行なわれ、その結果が伝えられたのがその日の午後に予定されていた抗がん剤治療の後だった。
文化祭の振替休が開けた六日以降の約十日間も、確かに、学校で顔を合せる美希の顔色は冴えなかった。だけど、弱っている身体に風邪を引いて回復が長引いているのだろうとしか思っていなかった。
何時も美希を妹のようにも、それ以上にも接している及川だ。それを見て知っているだけに電話の向こうの彼をどう励ませば良いんだろう。掛ける言葉に詰まった。そうだ、今日は父が居る。診療も休みだ。そう思うと父の都合も聞かないまま、俺の家に来ないか?と及川を誘った。
及川が憔悴した顔を見せたのは午前十一時ちょっと過ぎだ。事前に父に事情を話し、何か及川にアドバイス出来る事があればと頼んだ。父は最初渋った。転移とあれば決していい話にはならないと言った。それに、診療経過も検査結果も見ていないのに予断を持って話すことは出来ないと言った。結果は、及川君の話を聞くだけでも聞いてあげようと言った。患者は聞いてもらうだけでも癒される、父は何時も俺に聞く事が診療の第一歩だと言っていた。それを実践して見せる気になったみたいだ。
及川を居間に通した。緊張した面持ちで防寒着のアノラックを脱ぐことさえも忘れている。
「上着、脱げよ。バイクは寒かったろう?」。
促されて、ハッとしたようだ。ソファーの父と対面の位置に座るよう促した。
「熱いコーヒーを淹れて来なさい」。
父の言葉に従った。それまでリビングに一緒に居た母は遠慮して別の部屋に行った。篤は部屋で勉強しているらしい。由美は友達の所に出かけている。