(サイカチ物語・第6章・文化祭・15)
食堂代わりの教室と野菜即売会場に人が集まっていた。帰り時刻の午前派が野菜を手にし、午後派が豚汁とおにぎりを口にしている。右手の昇降口は帰る人と来たばかりの人で混雑していた。決まって自分の履物が見当たらないと言い出す来場者が出る、一階が尤も賑わいを見せる時間帯だ。
おにぎり二個と豚汁を手に、室内を見渡して座る席を探した。窓際で一人食事を摂っていた陸上部の佐藤君の向かいの席が空いていた。声を掛けて座ろうとした。
「ゴメン、その席」。
佐藤が箸を右手に持ったまま×の字に腕をクロスした。バンダナキャップを被った農業科の千葉佳子が俺の横に豚汁とおにぎりを二個持って立っていた。そういうことかと理解して去ろうとして、空席の隣に並んで座っていた白髪交じりの小母さん二人だった。
「どうぞ。空きますよ」。
「美味しかったわよ。有り難うね」。
言葉が俺に掛けられた。バンダナキャップを被った俺を俄調理要員か店員役と間違えたらしい。
「ユックリして下さい」。
返し言葉で遠慮したけど小母さん二人は席を後にした。佳子が座ってと目で合図した。佳子の左隣の席に座ることになった。
佳子の話だと、十一時半から一時ちょっと過ぎまでが豚汁とおにぎりの出るピーク時間で、食堂担当の農業科の生徒は午後一時から二時の間に交代で昼食を摂るのだと言う。豚汁が四百杯、おにぎりが六百個売れれば良い方。学年が減った分、来場者も減って需要が去年よりまた減ったと言った。来場者の数に変化が無いと思っていた俺には以外だった。
俺の質問に応えた佳子は、それよりどうやってあの資料を手にしたのか、展示物を作るキッカケが何だったのかと聞いてきた。佳子と佐藤は九時頃に俺達の展示物を見ていた。二人とも葛西一族なんて聞いたことも無かった。あの陣割りに出てくる城主の名前と伊達政宗の謀略、佐沼城でのナデ斬り、それに続く須江山の惨劇に驚いたという。
岩城先生の歴史話と資料提供がキッカケだ。そう二人に説明しながら、ふと吾妻鏡の編纂者は誰だろう?と思った。そもそもこの地方に大きな子孫を残した葛西清重と千葉介常胤の活躍等を記録した吾妻鏡の事を岩城先生から聞いたことから始まったことだ。
岩城先生から聞いた話やお借りした本とインターネットで調べて俺の頭の中にある吾妻鏡は、一一八〇年から一二六六年までの八七年間を書いた物。編纂されたのは一二九〇年頃から一三〇〇年始め頃。日記風になっているけど実は後年になって編纂されたもの。編纂に北條得宗家は元より、当時鎌倉幕府の政所や問注所に関わっていた人物、寄合集や評定衆になっていた人物の意向が影響している。三好康信や大江広元、二階堂行政の子孫が編纂に関わったという学説がある、という整理だ。
吾妻鏡の前段に葛西清重と千葉介常胤に関わる記述が多くあると感じていた俺は、佐藤と佳子と話しているうちに資料提供や編纂に清重や常胤の子孫がかなり関わっているのではないか、そう思った。展示物は展示物として、葛西一族の四百年の史実を伝えるには鎌倉時代はもとより、その後の南北朝時代や室町時代、そして戦国時代の葛西一族の盛衰を探らないといけないのだろう。
そう思うと俺のサイカチ物語はまだまだ始まったばかりのような気がした。佳子が佐藤におにぎりを一個提供した。お先にと言って席を後にした。ご馳走様だ。どっちのご馳走様だろう。自分でニヤリとした。
二階に戻ると、かなりの来場者が約二十五メートルの展示物の前に居た。佳子が話したような、来場者が減っているようには見えない。及川も美希も数人を相手に立ち話をしていた。
持ち場の椅子に座ると、頭の毛がかなり薄い七十代らしき小父さんが声を掛けてきた。
「秀吉の小田原攻めって、あの伊達政宗が小田原に遅れて行って、何とか山で、もう少し来るのが遅かったらお前の首を撥ねていた、危なかったぞって、秀吉が杖で政宗の首を叩くやつだろ、俺、テレビで見たよ」。
「はい、葛西晴信も小田原に参陣しなかったために所領没収に遇ったんですよ」。
「政宗は運が良いからな。ここは伊達の殿様だからな」。
そう言うと首を縦に一人頷いて離れて行った。何を言いたかったのか俺には分らない。だけど、やっぱり平泉藤原時代の後は伊達政宗なんだ、と去って行った小父さんの歴史観を想像した。