(サイカチ物語・第6章・文化祭・10)

 

謀略(・・)その(・・)()伊達(・・)()ナデ(・・)斬り(・・)()須江山(・・・)()惨劇(・・)

・木村吉清等がいなくなった佐沼城を、再び一揆軍が占拠していました。

・目論見が外れた政宗は、減封され・不平、不満を抱く家臣と領地の無くなった家臣を抱え必死でした。また自分が一揆勢を支援

 していた証拠を消さなければなりません。

 

政宗(・・)()()から(・・)戻る(・・)()一転(・・)して(・・)()()()()詰めて(・・・)いた(・・)一揆勢(・・・)()一万人(・・・)()伝わる(・・・)葛西(・・)一族(・・)郎党(・・)()()襲い(・・)かかります(・・・・・)

()()()()三重(・・)()お堀(・・)()真っ赤(・・・)()()()染まる(・・・)()どの(・・)殺戮(・・)()した(・・)

・この下の机の上に、資料十二、「佐沼城復元絵図」の写真を置きました。持って行かないでね。

 

・政宗の第一の闘将と言われる伊達成実の日記「成実記」には、女子供、侍百姓、老若を問わず、二、三千余討ち果たした(殺した)とあります。そして、城中(・・)死骸(・・)多く(・・)()()()()見えず(・・・)と書いています。後世に、伊達(・・)()ナデ(・・)斬り(・・)、と言われているのがこれです。知っていましたか?。

・古文書は、()()()()一揆軍(・・・)()()()十九年(・・・)一五九一年(・・・・・)七月(・・)三日(・・)()夕方(・・)()落城(・・)した(・・)と伝えています。

・なお、その時、援軍として参加していた後の南部藩主・南部信直は、殺された一揆者は女子供も含み五、六千人に上り、伊達軍もまた千人からが討死にしたと書いています。凄い戦死者数です。

・また凄惨な状況は城中だけでは有りませんでした。伊達秘鑑には、城中だけで無く、()沼川(・・)()真っ赤(・・・)()()()染まり(・・・)飛び込んで(・・・・・)おぼれ(・・・)死ぬ(・・)()()また(・・)()知れず(・・・)()有ります(・・・・)

 

悲劇(・・)()それ(・・)だけ(・・)()終わりません(・・・・・・)()した(・・)

・政宗は、貰った旧葛西・大崎領を子飼いの古くからの家臣に与えるためには、新しい領地の不穏な動きを一掃しなければ成らなくなったのです。

政宗(・・)()旧大崎領(・・・・)葛西領(・・・)()葛西(・・)一族(・・)()()殲滅(・・)()必要(・・)だった(・・・)のです。そして、政宗の謀略を用いた残党狩りが行なわれたのです。

○「須江山(・・・)()惨劇(・・)として、古文書等に伝えられています。

・政宗は、葛西・大崎一揆に参加した者、地域に隠れていた者の惣領クラスに降伏を呼びかけます。

・高札等による呼びかけは、処罰は問わない所領安堵を約束すると言った内容でした。

・旧葛西の一族郎党等が、一揆を支援してきた政宗に一縷の望みを託すのは当然だったでしょう。一揆軍(・・・)()()()伊達(・・)()()指物(・・)()翻って(・・・)いた(・・)()です(・・)から(・・)伊達(・・)()仲間(・・)だった(・・・)のです。呼びかけられた旧葛西一族郎党等は罠とも知らず参集してきました。呼びかけに応じて来た者の中には、葛西時代に政宗と内通していた者もいました。

 

・深谷の長江景勝の居城だった小野城、今の宮城県東松島市小野にあったお城です。政宗は、そこに集めて饗応し、汝等の騒動せしめた罪は決して軽くないが、太閤の名代として関白秀次公が近々下向する。その折に仔細無きよう取り計らう、本領安堵だ。と秀次の名を出していかにも本当らしく思わせぶりに話します。そのことは伊達家治家記録に書かれています。

・そして八月十四日午の刻、桃生郡深谷にある須江山に改めて集まるよう指示します。

・彼等は、須江山(・・・)()本領(・・)安堵(・・)()お墨付き(・・・・)()もらえる(・・・・)もの(・・)()思い(・・)喜び(・・)勇んで(・・・)須江山(・・・)()()まりま(・・・)した(・・)

しかし(・・・)そこ(・・)()待って(・・・)いた(・・)()()突然(・・)周囲(・・)から(・・)武装(・・)した(・・)伊達(・・)()()泉田(いずみだ)安芸(あき)率いる(・・・)伊達軍(・・・)()襲撃(・・)です(・・)有無(・・)()云わせず(・・・・)皆殺し(・・・)()しました(・・・・)。それが今でも地元の人達に伝わる「須江山(・・・)()惨劇(・・)です(・・)

 

・「成実記」には、関白豊臣秀次の命でやったもので、殺したのは二十余名と書かれています。果たしてそれが本当かどうか分りません。政宗の所業を、秀次を借りて正当化しているとも言えます。

・また、その時に殺された者が二十余名とありますが、近年、須江山の惨劇による犠牲者はそんな少ない数ではなく百名はこえていたという調査結果を発表している方がいます。宮城県立石巻高校の先生をしながら調査された方で、本にまとめて出版もされています。

・お寺の過去帳等に天正十九年八月十四日、深谷にて戦死と書かれてあれば、それは須江山の惨劇の犠牲者とみて間違いないでしょう。

・お寺の過去帳や墓碑銘、各家に伝わる系図、古文書、岩手県史等を丹念に当たって調べた結果、その数が優に百を超えたと伝えています。全く同じ日に同じ場所で死んだことが記録されていたら、素人の我々だって、ああやっぱりと思いますよね。

 

・一部の武将武士は命からがら須江山から逃げ街道に出れば何とか逃げられると思ったらしいのですがたった(・・・)一つ(・・)()街道(・・)東浜(・・)街道(・・)には(・・)伊達(・・)()鉄砲隊(・・・)()待ち構えて(・・・・・)()ました(・・・)。最早これまでと逃げてきた人達は沢のある糠塚の窪地に入り自ら(・・)()()絶っ(・・)()自刃(・・)した(・・)と伝わっています。その(・・)()()()地元(・・)()()()殿()入沢(・・)()呼ばれて(・・・・)残って(・・・)います(・・・)。須江山は、今の宮城県石巻市須江糠塚にあります。

・この下の机の上に、資料十三、「殿入沢跡」の標柱が立つ写真を置きました。

◎ここに、約四百年続いた葛西一族は滅亡しました。サイカチ「葛西、勝つ」には、ならなかったのです。

なお、葛西晴信を裏切り伊達政宗と内通していた富沢日向守、浜田安房守等は、政宗が我らの主人になったらと、その後の処遇に期待していたかも知れません。しかし、その余りに酷い佐沼城の仕打ち、須江山の惨劇は彼等をも裏切るものでした。

富沢日向守は一揆軍と伊達軍の合戦の様子を知って、早々に盛岡に逸走し南部藩南部信直の家臣になっています。また浜田安房守は息子二人を須江山で失い、自らは南部藩に逃げ食客となっています。晴信書状に変身奇怪なりと書かれた同じ気仙の大和田宮内は須江山で殺されています。政宗と内通していた葛西家重臣・葛西重俊、彼だけはその冬から百貫文の高禄を貰って政宗に仕えていました。

 

〇現代でも、宮城(・・)県立(・・)石巻(・・)高校(・・)()校歌(・・)()()()葛西(・・)()()現わす(・・・)三つ(・・)() 葉風(・・)さやけく(・・・・)()歌い込まれて(・・・・・・)います(・・・)。また、同校(・・)()()()()葛西(・・)()()家紋(・・)()ある(・・)三つ葉(・・・)()()()となっています。

・この下の机の上に同校の「校歌と校章図」を置きました。(資料十四、「宮城県立石巻高等学校校章、校歌」)

昭和の中頃まで、正月は、門松の代わりに、サイカチの枝を軒先に飾る家々がこの私達の町にも見られたそうです。

                                    (了)