(サイカチ物語・第6章・文化祭・9)
◎伊達政宗の目算違いの発生。
・秀吉から、奥州仕置き後の治安の安定化等を任されたのが、会津黒川城(後の会津若松城)の蒲生氏郷です。
氏郷は、政宗と一緒に一揆軍の鎮圧に乗り出します。
○政宗の重臣の一人に須田伯耆という人物がいました。
・須田は一揆軍を鎮圧する総攻撃の前夜、天正十八年十一月十五日の夜。鎮圧軍の氏郷を密かに訪ねてきて「葛西・大崎一揆の 首謀者は政宗である。」、「この機会に氏郷殿の暗殺も計画している」と、政宗の一揆を煽動する証拠の書状を持参して密告し
ます。
・氏郷は、秀吉が会津に置いて行った、今一信用できない政宗の見張り役でも有りました。すぐに、秀吉に報告しています。
・密告を裏づけるような政宗の行動に危険を感じた氏郷は、一揆軍が占拠していた大崎領の名生城(宮城県大崎市)を奪取する
と、そこに籠城を決め込んでしまいます。
・政宗は、結局、自分だけで木村吉清父子を佐沼城から救出しました。
・この下の机の上に佐沼城に向かう蒲生軍、伊達軍の進路図を置きました。(資料九、「葛西・大崎一揆関係図」)
・年開けて、一月末に秀吉から政宗に至急上洛しろと書状が届きます。
・政宗は、天正十九年二月四日に京都に入りました。そのときの姿は、京の都の人々を驚かせました。政宗は死に装束で、金箔塗
りの磔ようの柱を押し立てていました。
・聚楽第の大広間で政宗は秀吉に審問されます。秀吉は、須田伯耆が持込んだ文書を政宗に突きつけます。政宗は、その書状は
偽物だと主張します。政宗の花押は野鳥のセキレイです。そのセキレイの目の所に針で穴を明けてあるのが本物で、須田伯耆
が氏郷の所に持参した書状のセキレイの目には穴が開いていないと云います。
誰かが自分を陥れる為に仕組んだ罠だと言います。
・以前に秀吉に届けられた政宗の書状のセキレイには、どれも目の所に針の穴が開いていました。秀吉は、それでもう審問を終わ
りにしています。
・政宗の言い分を認めたように見えます。しかし、よく考えるとおかしな話です。セキレイの目に穴を開けるも開けないも政宗の
勝手です。両方を使い分けていたら、穴が開いている、開いていないで本物、偽物を証拠立てる言い訳にはなりません。
・この事に絡んで、後日、家康の家臣の井伊直政が「政宗の一揆勢加担は明か、だまされた秀吉公は愚かですね」と言ったとこ
ろ、家康は、秀吉公は分かっていたよ。死を覚悟して上洛した政宗の勇気と檄文を偽文書と弁明した器量に免じてあえて見逃し
た、という逸話が残っています。
・この下の机の上に、伊達政宗の花押のセキレイの絵を置きました。(資料十、「伊達政宗の花押」)
・秀吉は政宗を許したように見えますが、その数日後に厳しい決定を下しています。
・政宗の先祖伝来の居城である米沢城のあった置賜郡、苗字の由来の地・伊達郡、伊達氏累代の墳墓のあった信夫郡安達郡などを
没収し、換わりに旧葛西・大崎領十二郡を与えます。この時点で政宗は七十二、三万石から五十八万石にまで減封されました。
・この下の机の上に奥州仕置き後の政宗の所領を示す図を置きました。(資料十一、「天正19年2月奥州再仕置き後頃の所
領」)
・しかも政宗は、五十八万石のうち一揆を鎮圧して初めて旧葛西・大崎領の三十二万石が自分の領地となるのです。没収された土
地からの大移動を含めて、政宗は、労力も経済的出費もかなりの負担を強いられる事になってしまいました。
・木村吉清父子は改易、領地を没収されて氏郷の配下とされました。