(サイカチ物語・第6章・文化祭・6)
◎謀略その二、虚言を使って葛西晴信と豊臣秀吉との接触を妨害
伊達政宗は、葛西晴信が秀吉と接触する機会を阻止しようと虚偽を弄します。また、葛西領を傘下に収めようと晴信の重臣に
一層切り崩しを働きかけます。
・葛西晴信は、秀吉や秀吉の周りの重臣達の動向等を知りたくて小田原参陣から戻った政宗の下に使者を送りました。
・残されている政宗の晴信宛の書状には、わざわざ使者を寄越したこと祝着に思う。来意の趣旨に添って話をした、
全てはお任せあれ。奥州のこと言うに及ばず、出羽に至るまでも仕置きは政宗に仰せ付けられた。その旨の状況を各々の郡主に
連絡した・・ とあります。
・しかし秀吉は、このような意図の命令も指示も政宗にしていません。
・小田原参陣の捌きで、政宗は、蘆名氏を滅ぼして得た会津三郡等を惣無事令違反等で秀吉に取り上げられたばかりです。
政宗は、自分以外の武将への処置がどうなるのかまだ分かりません。
・しかし、晴信が秀吉に謁見して本領安堵を勝ち取れば、奥州制覇の野望を持つ政宗はその後に葛西領を自分の物にするのは不可
能になります。
・そこで政宗は、あたかも自分が奥州、出羽一帯の仕置きを秀吉に任されたかのように虚言の書状を方々に発行したのです。
正に政宗のパフオーマンスであり、謀略です。騙されて、宜しく頼むと政宗に礼状を書いた稗貫輝家(陸奥陸中(岩手県)稗貫
郡)のような方も居ます。
・この当時、もう一つ、政宗の重要な文書があります。流斎という号を持つ葛西重俊に宛てた文書です。
重俊は葛西晴信の弟・胤重の息子ですから晴信にとって甥に当たります。文面は次の通りです。
葛西流斎へ被下候御書写
就自小田原草々下向候 自晴信被企使者候 祝着之至候 殊為自分細書本望之至候
如来意之 今度仕合存分候 奥州出羽仕置 政宗二被仰付 旁々御悦喜可在之候哉
弥晴信当方へ一統之御刷 畢竟旁々前二可有之候 関白様近日御下向二付而
明日廿三為御迎打出候 依早疎及回答候 意外候 尚彼口上可有之候 恐々謹言
追而 夷皮三枚到来 一入珍候 喜悦候 以上
天正十八年七月廿二日 政宗御書判
流斎
・文面の真ん中に奥州・出羽の仕置きは政宗に仰せ付けられたと有りますが、これが虚言である事は前述の通りです。
・ここでは方々お喜びすべきではないかの次に注目して下さい。弥太郎の「弥」の字は「いよいよ」と読みます。
いよいよ晴信当方へ一統のお刷(はか)らいと有ります。葛西晴信は独立大名として対外的に行動してきているのに、
この文面を見ると、なんと葛西の重臣重俊が政宗と通じていて伊達への従属を画策していたことになります。
伊達政宗の葛西内切り崩しの謀略がここでも進展していたのです。