(サイカチ物語・第6章・文化祭・5)

 

六 葛西晴信と伊達政宗・ 

 ・葛西晴信が、豊臣秀吉の奥州仕置きで所領没収により滅亡したことは事実です。

 ・しかし、上洛して織田信長に謁見したこともある葛西晴信が、何故、天下の趨勢を見て当時の政権の権力者である秀吉に臣下

  の礼を取らなかったのか、小田原に参陣しなかったのか、疑問が残ります。

伊達(・・)政宗(・・)()陰謀(・・)

  葛西晴信の小田原参陣を阻止する伊達政宗の陰謀が有りました。

 ・天下の政権は織田信長から豊臣秀吉に変わり、戦国の世は終わりを告げようとしていました。

  しかし、奥羽地方は未だに戦国の世、下克上の世界でした。

 ・伊達政宗は天正十八年を迎える頃、山形の米沢を拠点として隣国の国分(こくぶ)氏や畠山(はたけやま)氏を滅ぼし、

  また会津周辺を領内とする蘆あしな)()も滅ぼし百五十万石とも百七十万石とも言われるようになっていました。

  家督を相続して僅か五年。若干二十三歳です。

 ・奥州仕置きを迎える頃には、隣国・大崎義隆の臣下等の内紛を利用して、事実上、大崎領も支配下に治めていました。

 ・次ぎに支配下に置きたかったのは葛西領です。

  葛西晴信が、秀吉に認められて所領安堵となれば晴信を攻める事が出来なくなります。

 ・政宗は、葛西晴信の小田原参陣と秀吉との謁見を阻止する策に出ます。

謀略(・・)その(・・)()内訌(・・)()よる(・・)葛西(・・)()()()小田原(・・・)参陣(・・)阻止(・・)妨害(・・)

 ・内訌とは、うちわもめ、内紛です。

 ・伊達政宗は、葛西晴信の臣下同士の領地争いや水利権争い等を利用して、一方を支援することで葛西領内に自分の支配力が及

  ぶように画策します。

   そして、葛西晴信に謀叛(むほん)を起し易い状況を作り、晴信が小田原に参陣出来ないようにしていきます。

 ・伊達政宗が後ろで仕掛けていたと伝わっている浜田の乱があります。

  小田原参陣に影響している事が次の起請文(きしょうもん)で分かります。なお、「富沢(とみざわ)日向(ひゅうがの)(かみ)に内通」とあり、

  富沢は以前から政宗と連絡を取っていました。(富沢宛の伊達政宗文書も他に有ります。)

   葛西晴信起請文

 今度秀吉公為北條氏直征討 相州へ就被発向 諸国之大将日々ニ小田原へ走参候条

 我々モ近日罷上覚悟ニハ候得共 先年浜田逆意之砌同心之者共 兼々富沢日向守二内通

 有之候間 在小田原中諸事難斗ト相廻候へ者 小田原ノ首尾何候 床敷候条 

  留守中之義其方偏頼事候 小田原方首尾能於下向二者 為其忠賞桃生之郡一宇可宛行 若於相違二ハ梵天大釈 

 日本国中大小之神祇 可蒙御罰者也 仍如件

  天正十八年三月廿八日  晴信(香炉印)

 三田刑部少輔殿

 

 ・葛西晴信は、天正十八年四月十七日に東山長坂、(から)梅館(うめだて)(現一関唐梅総合公園内)において、

  小田原参陣の方針を決定しています。

 ・しかし、「逆意之(さかいの)(みぎり)」とあるとおり裏切り、謀叛という領内の不穏な動きから小田原に出かけられなかったのです。

  次の書状でも分かります。

    葛西晴信書状

  去月十七日東山長坂二於談合及承候事 大和田宮内少輔変心 甚以寄快(注・奇怪)也 今後浜田刑部モ覚束なく之状

 家老主馬介以相分候 仍而以前知行上地云云之次第可然二付 其許草々出仕可申領所之内以前被下置候通り之知行 重而永代

 子細無之 依而如件

  尚々先般渡置候具足 今度其許進上可申 委細彼者口上可申候 尚面語之上可申者也

  天正十八年五月十四日 晴信(花押)

 小野寺若狭殿