(サイカチ物語・第6章・文化祭・4)

 

四 奥州(・・)仕置き(・・・)()よる(・・)領地(・・)没収(・・)

・豊臣秀吉は、織田信長亡き後、皆さん知っての通り天下取りを目指します。

 天下取りは、全国平定を意味します。

・秀吉は、戦国の世を終わらせるために、天正十三年(一五八五年)から十五年、全国に(そう)無事令(ぶじれい)を発しています。

・惣無事令とは、秀吉の認めた「(おおやけ)の戦い」以外、問題解決の方法として(いくさ)を一切認めない。私戦を禁ずるというものです。大名同士の領国争い。親子兄弟間の領地争いや家督争いだけでなく、村と村との水利権争いのような百姓同士の争いも勝手にしてはいけないという画期的な法令でした。

 

◎奥州仕置きは、天下平定を図る秀吉に臣下の礼を取るかと惣無事令に従うかを問い、それによって、大名の身の保証と所領の行方を決定したものでした。

・臣下の礼を取らず惣無事令に違反して滅ぼされたのが、小田原北条(ほうじょう)(うじ)(なお)です。

・秀吉は、小田原攻めの時に、紛争をしている伊達政宗や葛西晴信、秋田(あきた)(さね)(すえ)南部(なんぶ)(のぶ)(なお)大浦(おおうら)(後の津軽(つがる)(ため)(のぶ)等に、小田原に参陣して臣下の礼を取る事と、私戦を止めることを約束させようとしました。

 

葛西(・・)()()()、この小田原(・・・)参陣(・・)()命令(・・)()従わなかった(・・・・・・)ため(・・)()凡そ四百年(・・・)続いた(・・・)三十二万石(・・・・・)()言われる(・・・・)葛西領(・・・)(岩手・宮城県に跨がる葛西七郡)()()()()没収(・・)されて(・・・)しまいます(・・・・・)

・葛西晴信以外にも、この時に領地を没収された奥州の主な大名は、次の通りです。

 大崎( おおさき)(よし)(たか)(陸奥陸前(宮城県)大崎五郡)

 黒川(くろかわ)(はる)(うじ)(陸奥岩代(福島県)黒川郡)

 和賀(わが)(ただ)(ちか)(陸奥陸中(岩手県)和賀郡) 

 稗貫(ひえぬき)輝家(てるいえ)(陸奥陸中(岩手県)稗貫郡)

 田村宗(たむらむね)(あき)(陸奥岩城(福島県)田村郡) 

 石川(いしかわ)昭光(あきみつ)(陸奥岩城(福島県)石川郡)

 白河(しらかわ)(よし)(ちか)(陸奥岩城(福島県)白河郡)

 

◎伊達政宗は、惣無事令違反と小田原への参陣遅れから奥州仕置きで領地を没収され、百五十万石とも百七十万石とも言われる領地を七十二万石に減封されてしまいます。

・所領を安堵されたのは、次の武将です。

 南部(  なんぶ)(のぶ)(なお)(陸奥(青森県)南北部)   佐竹義宣(さたけよしのぶ)(常陸(茨城県))

 最上(  もがみ)義光(よしあき)(出羽羽前(山形県)山形)  相馬(そうま)(よし)(たね)(陸奥岩城(福島県三郡)

 秋田(  あきた)(さね)(すえ)(出羽羽後(秋田県)秋田)  津軽(つがる)(ため)(のぶ)(陸奥(青森県)弘前)

 戸沢(  とざわ)盛安(もりやす)(出羽羽後(秋田県)角館)

 

新領主(・・・)()木村(・・)吉清(・・)清久(・・)父子(・・)

・葛西、大崎の旧領約三十二万石の新領主に豊臣秀吉の家臣で、それまでの禄高が五万石だった木村父子が抜擢されます。

・なお、伊達政宗や石川昭光等が没収された会津、石川郡等の地域は、大名・蒲生(がもう)(うじ)(さと)に与えられています。また岩手県の和賀

 郡、稗貫郡は南部信直に与えられています。

五 天正十八年(一五九〇年)、奥州仕置前の頃の領地図は、概ね下の机の上に置いた通りです。(資料五、「天正十八年奥州仕置前頃の所領」)