(サイカチ物語・第六章・文化祭・2)
「サイカチ物語」(葛西一族の滅亡)
一 私達の町を所領として貰った葛西清重
鎌倉幕府の開府に貢献した葛西清重、千葉介常胤とその六人の子息が居ます。
葛西清重は、千葉介常胤の実弟、葛西重高の養子で、父は豊島常清、母は畠山重弘の女です。この葛西、千葉、豊島、畠山姓は、現在の東京、埼玉、千葉、神奈川県に跨がる武蔵国を治めた一族で桓武天皇の四代後の平良文と言う一人の人物から分かれて行きました。(岩手県史、盛岡葛西系図)
○この下の机の上に盛岡葛西系図の葛西清重までを整理したものを置いています。(資料一、四枚。持って行かないでね。)
葛西清重は、源頼朝に加勢して千葉介常胤、畠山重忠、熊谷直実、北條時政、梶原景時、比企能員、和田義盛、源義経等と平家追討に加わり、その後、平泉藤原四代討伐の奥州合戦の最大の功労者になります。
葛西清重は、頼朝に江刺郡、胆沢郡、磐井郡、栗原郡、登米郡、桃生郡、牡鹿郡辺りを報賞(所領)として貰いました。そして、藤原時代後の平泉の復興と治安の維持等を図る奥州総奉行に任命されています。文治五年(一一八九年)のことです。
平泉藤原時代が終わった後の奥州は、葛西清重以外にも頼朝によって鎌倉武士に報賞の所領として与えられたのです。鎌倉幕府開府の頃にどの地域が何という鎌倉武士に与えられたか、それが下の机に並べた五枚の郡割図です(資料二、青森県、岩手県・宮城県、秋田県、福島県、山形県の郡割地図、持って行かないでね。)。当校の岩城克彦先生に資料提供等のご協力をいただきました。見られる鎌倉武士の名は次の通りです。
青森県 南部光行(糠部郡)、他は未開地だったみたい。
岩手県 佐々木行光(閉伊郡)、戸沢衛盛(滴石)、工藤行光(厨川)、
河村秀清(紫波郡)、中条盛基(稗貫郡)、多田忠頼(和賀郡)、
阿曾沼広綱(遠野保)、金為俊(気仙郡)、
葛西清重(江刺郡・胆沢郡・磐井郡・登米郡・桃生郡・牡鹿郡)
宮城県 熊谷直実(本吉郡)、畠山重忠(玉造郡)、長江義景(深谷保)、
千葉頼胤(加美郡・黒川郡、東姓)、
和田義盛(遠田郡・志田郡)、
千葉胤道(宮城郡・名取郡・国分保)、
千葉胤盛(苅田郡・伊具郡・亘理郡、武石姓)
栗原郡、柴田郡は不明。
秋田県 成田助綱(鹿角郡)、浅利義遠(比内郡)、中村親能(仙北郡)、
橘公業(秋田郡・男鹿郡)、宮道国平(仙北郡)、
小野寺道綱(雄勝郡)、松葉資宗(平鹿郡)、由利維平(由利郡)、
河北郡、河辺郡は不明。
福島県 中村念西(伊達郡、信夫郡、伊達姓)、
千葉師常(宇多郡、行方郡、相馬姓)、
安達盛長(安達郡)、二階堂行政(岩瀬郡)、工藤祐経(安積郡)、
岩城清隆(岩城郡)、結城朝光(石川郡、白河郡)、
三浦義連(耶麻郡、河沼郡、大沼郡、会津郡、北田姓、藤蔵姓)
千葉胤信(標葉郡、楢葉郡、岩前郡、菊多郡、大須賀姓)
山形県 安達盛長(最上郡)、武藤氏平(田川郡)、二階堂行政(村上郡)、
大江広元(置賜郡)
お分かりでしょうか、及川、佐々木、熊谷、畠山、千葉、小野寺、三浦など私達生徒自身や先生方、町民の皆様の多くに見られる姓を持つ鎌倉武士が並んでいます。
また、生徒等に佐藤と高橋の姓も多いのに図には出て来ません。これは鎌倉武士に関係なく、佐藤の姓は元々地元の豪族の姓と言われています。また高橋姓は奈良時代からあったと伝えられ、平泉藤原時代に京の都から流れて来た人々によってこの地にもたらされた姓だったと言われています。
気仙郡に金の姓が見られますが、佐藤と同じ元々地方豪族で金の姓は金野、昆野、近野等に派生していったとも言われています。頼朝の奥州合戦の呼びかけに応じ手柄を立て、この地を安堵されたと伝えられています。
貴方の姓のルーツ、ちょっと関心が持てましたか?