(サイカチ物語・第四章・古城巡り・43)
十九
結局、えさし藤原の郷の出発は午後四時四十五分を過ぎた。県道八号線の盛街道から国道四号線の奥州街道に出て一関に向かう。約四十キロ近い距離だ。走っていて、風を切るバイクの音にリズム感が出たような気がした。
南に向かう俺達に西陽が作る影がズーッと付いて来る。中間点辺りになる前沢駅前と標識の出た所で熊谷が先導して右に曲がった。目の前にマクドナルドが有る。最後尾の俺と美希が到着すると熊谷が近づいてきて言う。
「休憩を取ろう、三十分ぐらい走ったからね」。
店内のイス席に場所をとった。それぞれが好きな飲み物を注文した。腕時計を見ながら熊谷だった。
「ここの休憩時間を入れて釣山到着は六時近くになる」。
「周りはまだまだ明るいから大丈夫よ、見学に支障なし」。
梨花が言った。
上の橋と名の付く橋を渡って間もなく釣山公園だった。俺の腕時計は午後五時五十分を指している。駐車場にバイク四台を停めて釣山公園ご案内という看板を目にした。頂上の本丸らしい田村神社までは結構な距離があるらしい。
「見学時間二十分と予定しているけど往復三十分はかかりそうね。でも、ここまで来て見ないわけにはいかないね。行こう」。
梨花が皆を急かした。
舗装されているけど右左に土塁の続く道があり古城の遺構を感じる。季節には桜の名所と言われるのだろう、桜並木の急な坂道を上って平坦な道になったと思ったら、また坂道で両側がまた葉桜の並木だ。その先に田村神社が鎮座していた。
一帯が本丸に当たる場所らしい。東西に百メートル近く、南北には三、四十メートルだろうか平場になっている。神社は蝦夷平定を目指して東征した坂上田村麻呂を祀っていた。神社の手前の右側に小板が建てられてある。
「これ何て読むの」。
烽火台と表示されている。
「ホウカダイだね。戦国時代の情報通信手段。ノロシを上げるって聞いたこと無い?。煙を上げて敵の来襲を知らせるとか、煙が
上がったら攻撃に移れとか、予め伝達事を決めておいて使う」。
「燃やしたのは何?」。
「煙が良く出る杉や松の枝、それに火薬だろうね」。
「夜はどうするの?」。
「夜間は明かりで知らせることになるから藁や木を燃やすか、火薬だろうね。ここに、こんなものが残っていること事態、珍しい
んじゃ無いかな。岩城先生が言っていたよ、ここの烽火台は葛西時代の物だって。
惜しいね。それを伝える立札でもあれば烽火台も土塁もぐっと古城感が出るのに」。
京子と俺のやりとりを他の三人が聞いていた。熊谷が直径一メートル、高さ八十センチ程に石を積み上げて出来ている六角形の烽火台をデジカメに収めた。
釣山公園から二十分ほどで花泉町の二桜城址に着いた。俺の腕時計は午後六時四十分を回った。途中、走るバイクの右側の山脈に陽は沈んだけど、まだ周りは明るい。一関街道から外れて清水原駅を右に見ながら東北本線を横切り、目の前の小山が城跡なハズだと思った。先頭を行く熊谷が時々右を見ながら、上り口を探しているのが分かった。
清水公園入り口の看板があった。そこを右に曲がると空き地の傍に城址への道と駐車場があった。
道の片側の立看には二桜館(別掲25)とある。
本丸が東西に六三メートル、南北に六一・二メートル、二の丸が東西に三十・六メートル、南北に七二メートルと掲示されている。
坂上田村麻呂以来の要塞と伝え、一三〇九年から二百八十年間は葛西一族の居城だったとある。しかも豊臣秀吉の奥州仕置きで葛西氏滅亡。その後、伊達(留守)政景の居城として使われたとある。
「こうあって欲しいね。これこそ俺達若い者にも地元の歴史を伝えるあり方だよ。何処にあっても各教育委員会は見習うべきじゃない?」。
「そうだよ。藤原、伊達だけじゃないって、葛西時代が四百年もあったことを俺達若者にも伝えるべきだよ」
熊谷の意見に俺は即、賛成した。