(サイカチ物語・第四章・古城巡り・36)
熊谷が俺達四人を前にして話し出した。岩城先生の所で知った知識とインターネットで調べた知識だと言った。
「鎌倉時代に千葉宗家第八代当主千葉頼胤の三男、道胤が一二九〇年前後に下向して来て岩谷堂を居城として江刺氏を名乗った。
また延慶四年、一三一三年、岩谷堂城主江刺三郎四郎が父母の供養のために石碑を建立した。それが目の前のこの古碑だ。
時代を経て元亀二年、一五七一年に伊達政宗の父、輝宗が葛西領に攻め込んで来たとき、当時の岩谷堂城主、葛西輝重が寺池の
太守葛西晴信と共に伊達勢と合戦し、これを撃退した。
だけど、輝重の後を継いだ嫡男信時は家臣の妻に手を出すなど素行が悪く、太守葛西晴信に隠居を命じられた。
その信時の後を継いだ傍系の重恒が、今度は浜田の乱、昨日話した陸前高田の浜田安房守に加勢して太守葛西晴信に反旗を翻し
た。裏で政宗の手が伸びていたと言われている。
それがために江刺氏は浜田と共に晴信に破れ、その後、急速に弱体化した。
そこに秀吉の奥州仕置きがあって岩谷堂城主・重恒は南部藩を頼って出奔している。
葛西・大崎一揆の勃発は、この江刺、胆沢辺りが最初と伝えられている。
伊達領になって岩谷堂城には伊達家の家臣桑折摂津守が入城して城下を整備している。
万治二年だから一六五九年。岩城宗規が岩谷堂城城主となってから岩城氏が明治まで九代続いた。
ざっとこんな所かな」。
熊谷の説明に俺達は驚いた。
「凄い。岩城先生バリじゃん」。
京子が言ったけど、俺も美希も梨花も驚いた。
梨花がへーっと声にした。俺は驚きの声を聞きながら、史跡公園なのに藤原時代重視で葛西時代や伊達藩時代を伝える案内板のようなものが無いのにガッカリした。
神社の左横で大イチョウの木が緑濃い葉を繁らせている。
「樹齢どのくらい?」。
梨花の質問だ。
「ネットの情報では八百年、鎌倉時代からとあったね」。
俺が答えた。美希がさっき見た大原より遙かに古いんだと言う。
丈はさほど違っていないけど幹の太さが違っている。
本丸跡から歩いてすぐ傍に藤原経清と藤原清衡の父子二人の偉業を顕彰しているという二清院があった。だけど、並ぶ人が多すぎて俺達は見学をパスした。
駐車場に戻ってみた腕時計は午後二時十分。えさし藤原の郷に行こうと熊谷だ。
そこから県道八号線の盛街道の上に架けられている夢の橋と名のある橋を渡った。坂を下ると、えさし藤原の郷の入口が見えてきた。