(サイカチ物語・第四章・古城巡り・30)

 

 案内板に大原城址は館山公園とある。

「館山公園って、藤沢と同じ名称ね」。

 俺達の藤沢町の古城跡、亀ヶ城も館山公園だ。

 俺が説明した。

「城というより(やかた)。それが廃城になって山の上にあったから館山跡。全国に館山って呼ばれる古城跡がかなりあるって岩城先生が

 言ってた」。

 大東町教育委員会が建てたという古びた木製の案内板(別掲22)だ。熊谷がデジカメに撮った。

「奥州大原千葉氏代々の居城って有るけど、その前に書かれている山吹城は葛西七騎の一つってどういうこと?」。

 京子の質問だ。

「細かいことは分からないけど、武田信玄二十四将とか真田幸村の真田十勇士みたいに葛西晴信に仕えた武将で特に評判の高い活

 躍を見せた家臣、七将の呼称だと思うよ。

 これから行く(から)梅館(うめだて)の千葉氏とか江(えさし)岩谷堂(いわやどう)の江刺氏とかも葛西七騎のうちに入っているんじゃないかな?」

 俺の答に今度は梨花だった。

「昨日の及川掃部頭はどうなの?」。

「俺には分からない。家に帰ったら調べて見るか。ここに葛西晴信の()(のぶ)(しげ)が大原城の城主になったとあるね。岩城先生が見せ

 てくれた盛岡葛西系図では信茂は晴信の腹違いの()じゃなかったかな?。どっちにしても葛西氏本家との繋がりの強さを示して

 いるね。先生は、千葉一族と葛西一族は元々出が同じって言ってた。

  葛西信茂は大原千葉氏の家督養子になって千葉胤重と名を変えている。胤の字は千葉氏が一族の人名によく使っている一字

 だ。

  そこに秀吉の奥州仕置軍と戦ったときの総大将として、千代竹丸は千七百騎の大将として天正十八年(一五九〇年)八月、神

 取に出陣したと書かれているね。神取は一昨日(おとつい)通った和渕駅の手前に有った神取山のことだ。

 案内板は信茂が天正十一年他界、その子茂光が天正十七年他界、奥州仕置きを迎えた天正十八年は茂光の子供、千代竹丸の時代

 という大原系図に従ったものらしいね。地元に残る系図だものね。

  だけど古文書の「葛西大崎陣割之覚」は、神取山出陣の総大将は大原千葉(ちば)飛騨(ひだの)(かみ)(たね)(しげ)(信茂)としている。またその六人の

 子供も一緒に参陣して、うち五人が桃生郡深谷の庄で討ち死にしたと伝えているものもある。

 ここでは千代竹丸が大将として出陣したとあるが疑問視されているわけだ。

  熊谷と俺で調べた勝部千葉氏系図は大原(おおはら)飛騨(ひだの)(かみ)(のぶ)(しげ)大原肥前(おおはらひぜんの)(かみ)茂光(しげみつ)、そして大原肥前(おおはらひぜんの)(かみ)千代(ちよ)(たけ)(まる)と続く。俺は、そ

 の勝部千葉氏系図や岩城先生の陣割之覚えの話から仕置軍との合戦に出陣した総大将は飛騨守胤重(信茂)で、子供五人と共に

 討死にした。葛西・大崎一揆蜂起の時の大原城主は生き残ったもう一人の子で後を継いだ肥前守茂光。彼が佐沼城で伊達のナデ

 斬りに会い討死にした。

  その跡を継いだ子の千代竹丸(重光)が一年後の天正十九年八月に須江山で非業の死に遇った。まだ十四歳だった。そう理解

 した方が自然な気がする。実際がどうなのか分からないけどね。岩城先生じゃ無いけど歴史を探る研究課題だと思うな」。

「ヘーッ、ロマンが有って良い。良く覚えている、言えるわね。及川君がこんなに熱っぽく語る事って今まであったかしら?」

 梨花がまた絡んだ。

「及川は歴史に目覚めたんだよ」。

熊谷がフォローした。茶化した言い方ではない。

 京子は案内板の全文をデジカメに納めていた。お父さんに見せると言う。