(サイカチ物語・第四章・古城巡り・21)

 

 後に続く四人を振り返った。上り口の側にあった高さ二、三メート、太さ四、五十センチ角の大きな御影石の蛇ヶ崎八幡神社の標柱の裏だ。及川姓の付く普請奉納者四人の名前が刻まれてある。

「一族なんだろうね、この及川姓の人達」。

 そう言いながら少し興奮を覚えた。改めてこの城館に住んだ及川掃部頭(おいかわかもんのかみ)ってどんな人物だったんだろう、この普請奉納者と俺のご先祖とどんな関係があったんだろうと思った。

「こんなのがあるなんて、思いもしなかったよ」。

 四人に向かって言った。

 

「及川(つな)がり?、ここに来た理由はこれっ?」

 梨花が聞いた。

「野焼き祭りの時、熊谷が藤沢の陣や浜田の陣の仲介役をした及川掃部頭の城があった所って言ったの、覚えてるか?。

 藤沢の陣は明日行く大原城の千葉飛弾守と俺達の住む町の藤沢城主岩淵近江守との所領の境目争い。

 蛇ヶ崎城主及川掃部頭が、主君・葛西晴信の命を受けて和解のための仲裁役を果たした。結局、大原と藤沢が身内同士を人質交

 換して和解にしている」。

 

「浜田の陣は?」。

 梨花がまた聞いた。

「さっき通ってきた志津川(しづがわ)にあった朝日城の城主千葉大膳と米ケ崎城主浜田安房守の争い。浜田になっているけど浜田安房守も姓

 は千葉。遠い親戚同士の争いと言えるね。

 通ってきたばかりの脇ノ沢(わきのさわ)って駅、あの右側の海に着き出た所に(よね)ケ崎(がさき)(じょう)があった。争いは海上運行の利権争いが発端だった

 かな?。前に仲裁した主君葛西晴信に不満を抱く浜田安房守の謀叛(むほん)だったらしい。

  岩城先生に資料を見せて貰ったんど・・・、 

 兎に角、騒動の収束に主君葛西晴信自身が出陣するようになった。晴信側が相当な数の鉄砲を使い、浜田側がかなりやられた

 ところで晴信の命を受けた及川掃部頭がこの争いの和解の仲介役に立った。

 近年になってそれを証拠立てる葛西文書が発見されている。まだまだ研究されるべき歴史的課題のある所だって先生が言って

 た」。

「及川君が歴史に興味を持つようになったのは何時(いつ)頃。やっぱり岩城先生の影響?」。

「かもね。千葉も及川も熊谷も、源頼朝に所領を貰ってこの岩手県南と宮城県北に来た鎌倉幕府御家人の姓の名残りなんだって。

 そうそう及川姓はね、源頼政から出ている姓なんだって。頼政の墓が宇治の平等院にあるんだって。源頼朝より先に平家追討の

 トップバッターだったらしい。今の俺達にどう繋がっているかなんて誰も分からないけど、ロマンがあって良いよ。

 及川繋がりで、俺がここに来ようって熊谷に言ったんだ」。

「来てみて感想は如何(どう)ですか」。

 京子が話の間に入った。

「イヤー、四百年前に俺達の今立っているところに及川掃部頭が立っていた。そう思うだけで来た甲斐があるさ。古城巡りの醍醐

 味だよ」。

 四人が改めて目の前の御影石の標柱に(さわ)った。俺は刻まれてある普請奉納者四人の名前に触った。