(サイカチ物語・第四章・古城巡り・10)
六
佳景山駅からは予定通り広域農道を走った。農道と言っても十分な道幅があり舗装されていた。進む道の周りは田と畑の田園風景だ。石巻女川インター側を通って国道四十五号線とある一関街道に出た。
少し走って石巻蛇田の交差点で左折し、石巻バイパスから間もなく石巻市役所方向の道に入った。市内に入ると車も人も多い。駅前を通過して旧北上川が正面に見えてきた手前を道路標識に従って右に曲がり、日和が丘(日和山公園)に向かった。
無料駐車場は坂を上ったところにあった。俺達のバイク四台を並べて停めて、道路向かいの公園入り口とある矢印に従って歩いた。もう日和山のてっぺんに着いていると思わなかった。神社までの登り口は幾つかあるのだろう。大鳥居までの階段上りを想定していたから意外な気がした。
少し歩いただけで広場だ。左に大鳥居、右の奥に神社が鎮座している。大鳥居の前に立つと、河口に架かった大橋と太平洋の青々とした大海原が広がる。石巻湾はまるで広げた両腕のように左右に陸が見え、目の前の青い海を貨物船や漁船が白波を引いて行き交っていた。水平線は陽の光にキラキラと輝き空は紺碧の色だ。磯の香りがしてくる。
「気持ち良いー」。
両手を空に広げて伸びをした京子の声がデカかった。周りにいた観光客の数人が俺達の方を振り返った。
大社は鹿島御児神社とあった。その周辺に天満宮、八幡宮、稲荷神社等もある。
「何を信心していても、ここに来たら神様は一遍に用を足すね」。
梨花だ。その言い方に皆が笑った。五人それぞれがそれぞれの神様を一つ一つ拝んで廻った。
石巻城址碑は社から少し下って、剪定された大きなツツジの木の前に建っていた。熊谷がデジカメに収めた。その近くに案内板が有った。昭和五十八年、一九八三年に行なわれた発掘調査で石巻城と思われる中世の大規模な城郭の遺構が確認されたとある。
また平成九、十年の発掘調査では拝殿の北側から空堀跡が発見されたとある。しかし、四百年続いた葛西氏時代の歴史の重みを伝える書き方では無い。案内板を見ながら葛西一族を周知する案内板やパンフレットがこの石巻にあったら良いと思う。
源頼朝の家臣であった葛西清重が奥州合戦の恩賞として江刺から牡鹿郡まで近隣の数カ所を拝領した。葛西氏の本拠地をこの日和山に築いた。そして葛西氏時代が約四百年も続いた。奥州仕置きで葛西氏の終焉を迎える寺池城、一揆軍のナデ斬りのあった佐沼城、豊臣軍と対陣した神取、和渕、惨劇のあった須江山、みなこの石巻市周辺になる。
世の人々に葛西一族を伝えるには格好の場所ではないか、この石巻を訪れる観光客も少なくないだろう。そう思った。
「この石巻城も江戸初期に廃城になったのね」。
梨花が傍で言った。それを受けて俺は岩城先生が言っていたことを言った。受け売りだけど言いたくなった。
「豊臣秀吉の一国一城の原則、その推進政策があったんだ。その考えは秀吉から家康に引き継がれた。
江戸初期に廃城になった城は全国あちこちにあるよ。伊達藩は後になって廃城になった古城書き上げの記録を残しているって
岩城先生が言っていた。見たことないけど自分達の住む町の古城の記録って興味がある、そう思わない?」。
「及川君がこんなに歴史好きだと思わなかった。氏家先生の日本史の時間はいつも寝てるじゃん」。
梨花が笑顔のまま言う。
「それは俺達の興味を引く授業になっていないからだよ、せめて、自分の町に関わる歴史的なことは授業でも時間を割くべきだ
よ。良くも悪くも自分の生まれた町の事を知らないで中学、高校を卒業するなんて、俺はおかしいと思うね。
今度、氏家先生に注文付けようかな・・・」。
ちょっと剥きになった。た。熊谷も京子も美希も俺と梨花の歩きながらのやりとりをニコニコして聞いている。
近くにある東屋の側に奥の細道を行く松尾芭蕉と曾良の旅姿の銅像が建っていた。その銅像を後ろにして熊谷のデジカメの前に女性三人が立った。
「今四時十分。この先トイレが何処で確保出来るか分からない。今のうちに各自済ましてくれ。それから、牡鹿半島に入る途中、給油するところがあったら寄り道する」。
熊谷の気配り発言だ。西陽はまだ燦々と照っている。暑い。