(サイカチ物語・第四章・古城巡り・8)
えっ、て思うほど屋敷に近く開かれた土地になっていた。足を踏み入れた場所が自刃の場だと聞いて思わず足下を見た。雑草がくるぶし辺りまで丈を伸ばしているだけだ。
そして、目の前の山が須江山だと言う。俺達の立つ位置から右側に十メートルばかり離れて繁る杉と雑木の林も須江山の一部だと言う。その急斜面に僅か五、六十センチ幅の階段が一直線に二、三十段ある。その先の上の木立の中に祠が見える。
俺達五人は階段と祠に向かって、並んで手を合せ、礼をした。
須江山の登り口は、この屋敷の私有地の奥からだった。外にも登り口はあるのだろうけど、桑島さんはこの目の前の杉と雑木の林の中を上って行くのだという。
「毎年旧盆のこの時期に上り、頂上の平(平坦地)で焼香してくんのっしゃ(してくるのです)」。
小学生の高学年の頃に初めて葛西一族の惨劇の事を家族から聞かされて、以来、この時期の焼香を欠かしたことは無いと言う。また、手入れが十分でないから細い道が藪になっている所もあるし、上るのは止めたらどうかと言った。
しかし、藪になっている所があっても頂上までの道は続いているというのを聞いて俺達五人は当初の予定通り上ることで一致した。往復の時間を三十分見れば良いと言うことだった。
「またご縁があったらお会いすんべ(しましょう)」。
「お世話になりました、ありがとう御座います」。
最後まで丁寧な言葉をいただいて、俺達は揃ってお礼を述べた。
俺達はバイクの隊列の通りで上って行くことにした。途中、美希に大丈夫かって梨花も京子も振り返って声を掛けた。美希は俺の目の前を歩いている。平気、平気、大丈夫よと応える。
山の登り口から頂上までの距離は二、三百メートルぐらいのものだった。左右を雑木と杉が囲む細い小道で切り払われていない木の枝が通り道にはみ出していた。雑草が膝丈まであるところもあった。だけど急勾配も無く上るのに特に困るようなところはなかった。むしろ、この通る林間が殺戮の場だったのではと思うと涼しさを誘う木陰が余計に暗く深い森に見えた。サイカチの木だ。(再掲、
「熊谷、あそこ。サイカチの木だ」。
俺の指差す先のクヌギの木に巻き付くようにして、まだ緑色の実をつけたサイカチの木があった。熊谷がデジカメを向けた。
「あれがそうなの?、実物を見るのは初めて」。
京子が言う。
「木の名前を知らなかったけど、家の近くの雑木林にもあるね」。
美希の言葉に梨花が続いた。
「あの大きなサヤエンドウみたいなもの?、サイカチの木がどうしたの?」。
熊谷が説明した。
「葛西氏のサイと、勝つ、勝利するを掛けてサイカチだ。没落した葛西一族に関係あった人々、子孫がお家再興を願って家の門々等に植えたり、玄関口に飾ったりしたと伝えられている植物だ、その飾る風習が昭和の中頃まで見られたと岩城先生が言っていた」。
十分程して頂上に立つと、眼下に水田と畑が広がった。しかし、俺達の目は少しばかり遠くに見える石巻湾の海の青さに行った。眺めが良い。
頂上らしい開けた所は五メートル四方ぐらいだ。先生に聞いてはいたけど須江山の惨劇を今に伝えるものは何も無い。人々に須江山の惨劇は忘れ去られていくのだろうか。四百年前にこの須江山の草木を血に染め殺されていった人々がいたのは紛れもない事実だ。
政宗の身近にいた伊達成実の成実記にも記録されているし、今日では、政宗の命を承けて襲撃の指揮を執ったのが泉田安芸と明らかだ。またその配下に伊達政宗の慶長遣欧使節派遣でローマに渡り、クリスチャンに改宗した支倉常長が居たこともハッキリしている。
俺は大学に進学したらもっと詳しく調べて見たい。政宗も奥州制覇の野望どころか、先祖伝来の土地、米沢を体よく秀吉に追われ新たな所領の確保に必死だったろう。この須江山に葛西家と伊達家の恩讐を超えて墓碑の一つも有ったら良いのに・・・。
