(サイカチ物語・第四章・古城巡り・6)
五
佳景山駅も無人駅だった。白い古ぼけた駅舎の前に赤いポストがあったけど、小さな広場周りには何も無い。道路を隔てた駅の向かい側に酒店とクリーニング店がある。少し離れた所に新聞販売所があった。その先にはコンビニが見える。
岩城先生がこの佳景山駅に来た時、お店のおばあさんが店先まで出て糠塚までの道を丁寧に教えてくれたと言っていた。あの酒店の人なんだろうなと想像した。
駅の地番表示は先生が言った通りに、駅名と違って本当に欠山だ。
「須江山は目の前のこの森山だよ」。
熊谷が線路を挟んだ駅前の山を指して言う。周辺には他に山が見当たらない。駅前の広場にバイク四台を駐輪したまま歩いてみることになった。来た道が東浜街道で、駅に向かって右側の道を行くと糠塚らしい。地図では踏切を渡って真っ直ぐ三百メートルぐらい進むと左側に須江山への登り口らしき所が出てくる。頂上付近に須江山じゃ無く糠塚って書いてある。
どうしてだろう、兎に角、行ってみようとなった。
踏切を越えると右手に広大な水田と畑が広がった。左手が須江山みたいだが、登り口が分らない。
「本当に間違い無い?この道で・・・」。
二、三百メートルぐらい歩いた先の信号機の所で梨花が疑問の声を発した。夏の陽射しが強い。信号待ちの間、皆が額の汗を拭った。
緩やかなカーブの道の先頭を歩いていく京子だ。信号を渡って五十メートルも行かない所で、大きな声だ。
「アッター」。
須江山への登り口ではなく、石の台座の上に乗った石碑だった。
駆け寄って見ると、俺の一七八センチの背丈よりもある。石碑には大槻但馬守平泰常殞命地とあった。その右側に「殿入沢跡」と書かれた二メートル程の高さの古ぼけた標柱も有る。
「須江山への登り口は途中何処にもなかったよね」。
俺と熊谷が話しながら首をかしげた。
「建立者とある大槻文彦博士は一関出身の明治時代の国語学者で、日本初の近代的国語辞典『言海」』まとめた人。祖先がやはり
この須江山で憤死しているのを知ってこの石碑を建てた」。
熊谷が石碑の謂われを簡単に話した。
「「言海って、中学校の図書室にあったよ。開いて見ていないから中身がわからなかったけど、辞典だったんだ」。
梨花が言った。俺は知らなかったけど熊谷が頷いていた所をみると梨花が言う通り図書室に収蔵されていたのだろう。
殿入沢の標柱は下の方に赤いペンキの矢印で畑の中の十五、六メートル先の一軒家を指していた。道路際から奥まったところに桑島家があった。須江山で命を落とした葛西一族関係の人々の魂を弔ってきた、表札を見ながら岩城先生が言っていた桑島さんの屋敷だなと思う。同じような長屋門を持った家が二軒並んでいた。
「殿入沢はこの長屋門を入って行くのかな?。ごく一般的な私有地だよ。入っていいのかな?」。
熊谷が躊躇いを見せた。俺は言った。
「行って見よう。行って見ないと分らない」。
右側の家の長屋門の入口で、ごめん下さい、と大声を掛けた。だけど、門から家の玄関口まで十五メートルぐらいも離れている。観光地化されていない私有地に勝手に入るわけには行かない。今度は俺も躊躇した。
「折角来たんだから、玄関のチャイムを押すしかないわよ」。
京子の声に励まされた。
俺と熊谷が庭先に入って行って玄関のチャイムを押した。中からすぐに男性の声がして、五十過ぎだろう年配の方が顔を出した。
二人で挨拶をした。熊谷が葛西晴信関連で古城巡りをしている、葛西一族終焉の場となった須江山と殿入沢のことが知りたくて寄らせていただきましたと来訪の趣旨を伝えた。
小父さんは、後ろに続いて居た女性三人と、五人の姿を確認した。
「良く来てくれたね。どっから(何処から)来た?」。
「皆、東磐井郡にある岩手県立藤沢高校の生徒です」。
「ああ、すぐそこだべ(すぐ近くだね)。あんた達見たいに若い人が葛西一族を知ろうとしてくれるなんて嬉しいね」。