(サイカチ物語・第四章・古城巡り・3)

 

                  三

 国道三百四十六号線西郡街道に戻って、約二十五キロ先の佐沼城址に向かった。バス停が途中所々に見られたけど、すれ違ったバスは無い。米川の町並みを外れると、しばらくは右手に小高い山が続いた。

 やがて北上川に架かっていた(きん)桜橋(おうばし)という橋を渡ると今度は左右に水田が広がった。

 佐沼城址は、(はさま)(がわ)に架かった小さな橋を渡って三百メートルぐらい走った右側の小高い森にあった。大門跡は駐車場になっていた。その一角の道路に面した所に岩城先生が言っていたとおり佐沼城復元絵図(別掲⒘再掲)が掲げられていた。

 

 

 それを見ると、佐沼城は桜の馬場と呼ばれる所から大門までの周囲を水堀が囲み、中門の手前をまた水堀が囲み、更に城のあった本丸を水掘が囲むという三重の水堀を持つ城だった。

 葛西大崎一揆勃発で危機に立たされた領主木村吉清親子が立て籠もり、蒲生氏郷、伊達政宗の救出を待ったというのも頷ける。沼沢地という自然の要害を利用して堅固な城だったと想像できる。

 熊谷が、立てられていた佐沼城復元絵図板をデジカメで撮った。それを見ながら、俺はあの伊達政宗のナデ斬りを想像した。目の前の梨花に何故(なぜ)俺達が今日ここに来たのか、先生に学んだ事を思い出しながら話した。

「天正時代、俺達の藤沢町を含んで北が江刺、水沢辺りから西に一関、栗原、東に陸前高田、大船渡、気仙沼、南に女川、石巻辺

 りまでを治めていた領主は葛西晴信だ。

 葛西氏は鎌倉時代から四百年続く名門だった。その十七代目葛西晴信が、全国平定を掲げる豊臣秀吉の奥州仕置きで領地を没収

 された。一五九〇年のことだ。

  一族郎党は突然、家、屋敷、田畑を失い路頭に迷うことになった。そこに葛西氏に代わる新しい領主として秀吉に任命された

 のが木村吉清だ。その木村吉清の失政と家臣達の乱暴狼藉、横暴もあり旧葛西領等で間もなく葛西大崎一揆が勃発した。

  一揆は江刺、栗原、大崎でも陸前高田でも俺達の藤沢町でも起きた。その一揆に参加した人達が参集し一揆軍の一大拠点とな

  ったのがこの佐沼城だ。

  俺達の祖先がこの佐沼城に駆けつけ一揆軍の中にいたかもしれない。籠もった者の数が一万人とも伝えられている。

 天下取りの野望を持っていた政宗は、秀吉に敵対心があったから当初は一揆を煽り、一揆群を支援していた。ところが自分自身

 の身が危なくなって裏切る。

  秀吉の命を受けた政宗は逆に一揆軍の討伐に掛かる。一揆軍を支援していたという証拠を消すために、また旧葛西領を自分の

 物にするためにその切り込みが半端じゃなかった。

  佐沼城は、城に詰めていた女子供を含む人々の血で城の中はもとより俺達の目の前のこの水堀が真っ赤に染まったと記録され

 ている。

  一揆軍の死者の数、二千とも三千とも伝えられ、城内足の踏み場も無く土の色見えずと死者の多さを書いた日記も発見されて

 いる。その事実を伊達のナデ斬りと言って、今に伝わっている。そういう事件が四百年前にこの佐沼城であったんだ」。

 俺の話し方が違ったせいか、悪いのか、梨花だけでなく前に俺の話を聞いたハズの美希も驚いている。熊谷も京子も何時の間に

か側で聞いていた。俺達五人が改めて覗き込んだ目の前の水堀は土塁から伸びている木の枝に囲まれて少ない水を残していた。

 佐沼城跡は公園となっている。水堀は一郭だけが残っていた。熊谷のそろそろ行ってみようの声に本丸跡まで行ってみた。狛犬を見ながら上ると、緑濃い城址からすぐ近くを流れる(はさま)(がわ)が眼下に見えた。そこから離れて登米市歴史博物館が公園内に有った。入館料無料とあったけど月曜日の今日は休館だ。京子が残念ネーと、いかにも悔しそうに言う。

「月曜日は休館って多いじゃん。ひょっとしてこれから行く先々皆ダメなんて事無いでしょうね」。

 俺も熊谷君もそこまで気が回っていなかった。調べていない。

「古城巡りだから古城らしい土塁とか堀切りとか本丸跡が見られれば上出来じゃん」。 

 熊谷の言い訳に、京子もそれ以上の事は言わない。

「結構、土塁が高いわね。七、八メートルはあるんじゃない」。

「残念ね、堀跡がコンクリートで固められているのは。やっぱり昔と同じように土と木材で護岸を固めてあるとか、石垣が見られ

 る方が古城の印象は良いよね」。

 歩きながらの女性三人の会話と感想を尤もだと思いながら聞いた。復元絵図にあった(たい)(ぬま)跡だろうか、旧亘理邸跡と標識のある所から眺望が美しい水辺のある庭園が広がっていた。