(サイカチ物語・第三章・藤沢野焼き祭り)
点滴の残量がもう無くなりそうだ。俺が丸イスに座り直すと、布団から右手を出して俺の手を求めた。俺の左手を握ると安心したような顔をした。穏やかな顔だ。美希の額に掛かる髪を右手で整えた。
「ゴールデンウイークに熊谷と気仙沼周辺の古城を巡るツーリングに行ってきたよ。気仙沼に熊谷の姓を持つ人が多いんだ。
それは鎌倉幕府の御家人で熊谷直実という人が居て、その子孫が気仙沼に下向してきたことから現代の人に繋がっている姓なん
だって。この近在にも熊谷って苗字の人、結構居るよね。熊谷が、熊谷繋がりで是非気仙沼の古城を見たいと言い出して出かけ
たんだ」。
京子が同行したことは言わない。
「何故誘ってくれなかったの、一緒に行きたかった。海、綺麗だったでしょ」。
それに答えず、続けた。
「この間、熊谷が夏休み期間中にツーリングで佐沼、石巻周辺と一関から大船渡線沿線の古城巡りをしないかって誘ってきた。
一泊二日か二泊三日のキャンプ場利用でどうだって言ってた。勿論、岩城先生の話に触発されてだ。俺が葛西晴信ツアーだった
ら先生お奨めの行ってみた方が良いってとこ何処ですかって熊谷の前で聞いちゃったからな。
誘われたけど、俺も一応は受験生だからね。受験勉強との兼ね合いだって断ったよ。俺って受験生らしくない受験生かな」。
話しているうちに、最後はちょっと自嘲気味になった。
「ダメ。私が心配掛けて、私が俊ちゃんの時間を取って、ごめんなさい。明日も明後日も休みだから、俊ちゃん、ちゃんとお家で
勉強してね」。
今日は三連休初日だと、改めて思った。
「佐藤さん、お食事でーす」。
いきなりドアが開いた。
「あら、ごめんなさい」。
ドアの方を振り向くと、右手に昼食の載ったトレーを持った看護師だ。自分の謝罪の言葉と関係なく入ってきた。一階の玄関の昇降口で会った看護師だ。俺は立って、美希の代わりにトレーを受け取った。看護師はベッドの左側に立つと、美希に言った。
「良かったわねー。元気出るでしょ。早く良くなりましょうね」。
点滴の袋を交換して出て行った。横になったばかりの美希に食べるか?って聞いたら、もう少し後で良いと言う。床頭台の上に置いたトレーにはご飯と味噌汁に鯖味噌と、ほうれん草のおひたし。プリンみたいに見える卵豆腐、切ったリンゴが載っていた。
美希は箸を上手く使って食べられるのかなって思っていると、俊ちゃんはと聞く。
「後でラーメンでも食べてこようかな。この上に食堂があったよな。前に来たとき利用した事がある」。
「私はまだ良いから、俊ちゃん先に食べてきて」。
「俺は今朝ここへ来る少し前に朝食を摂った。俺こそ後で良いんだ」。
それを聞いて美希は起きて食べると言う。点滴を打っている左側からベッドを降りて俺が居るベッドの右側に回って床頭台の前に座るのだという。
ベッドの左側に回った。上半身を起こすのを手伝う。はだけた浴衣から右胸の白い膨らみと当てられたガーゼが目に入った。ベッドを降りるときには開いた左足のため右足の白い太ももの内側も下着も見えた。目の前に美希の顔がある。俺は身を固くした。俺の肩にすがっていた手が俺の首に回った。長い間、美希の口を吸った。初めて舌を絡めた。
三階の食堂から戻ると、小父さんと小母さんがベッドサイドにあった丸イスに座っていた。病院はどうして病室に置く椅子を丸イスにしているのだろう。見舞客の長居を阻止するために意図的にそうしているのだろうか?。他人が丸イスに座っているのを見ると、いかにも窮屈に見える。
美希と少し前にここで長いキスを交わしたばかりなのに、怖じけることも恥ずかしくもなく小父さん小母さんに応対する自分に自分でも驚く。目の前に居るのは美希のご両親なのに、美希は俺が守る。そんな思いがした。
「食事介助をしてくれてありがとう」。
小母さんの言葉だ。ベッドの美希の足下の方の布団の上には赤と紺の朝顔の花をあしらった浴衣が置かれてある。緑の葉に朝顔が活きていた。その上に赤い帯が添えてある。
「手術が無事に終わって良かったよ。来週の水曜日には退院できる」。
先に俺が美希に聞いて知っていることを小父さんは言った。俺は、良かったですと応えた。腕時計は午後一時半を回っていた。美希に学校で待っているよと言い、小父さん小母さんに挨拶をして病院を後にした。帰ったら美希の言うとおりに今日も明日も明後日も勉強に集中しよう。