(サイカチ物語・第三章・藤沢野焼き祭り・14)
この後の経過観察に問題が無ければ予定通り十八日の水曜日に退院。翌日から学校に通える。
「オートバイの運転は無理だって、佐藤先生が言ってた。お父さんの自家用車で病院にも学校にも通う事になるけど、それよりも
俊ちゃんの後ろに乗せてくれる?」。
「俺は構わないけど外来は?」。
「退院一週間後の二十五日に傷口の治り具合を診るんだって。その後、切除した標本の病理結果が出るんだって。八月一日の外来
にはどなたかご家族と一緒に来て下さいって先生から言われた。病理診断の結果とその後の治療方針の相談があるって言って
た。と言うことで七月三十一日までは無罪放免よ」。
途中で口調を変え、美希は努めて明るい声で言った。
「よさこいソーランの練習、出来るかな?」。
「止めとけ。無理だよ」
俺は無造作に言った。それで美希は顔を横に向けた。ベッドの布団に隠れた自分の足下の方を見ていた。少しの間、沈黙してか
ら俺を見て言った。
「ズーッと病気と向かい合っていろって言うの?」。
俺って馬鹿だなと思った。無言のまま美希の薄い肩を抱いた。美希の頬を一筋の涙が流れた。俺の左胸に頭を埋めた。押しつけてきた。しばらくそのままにしていた。何も言わなかった。言えなかった。
暫くはそのままだ。美希は思い出したように俺の胸から頭を離した。
「ねっ、この間の日曜日、一日の岩城先生ん家での話ってどうだったの?。行きたかったのに、聞きたかったのに。ねっ、どんな
話?、聞かせて」。
美希の顔は作り笑いにも見える。頬を流れた涙の後を美希はぬぐった。俺は岩城先生の家に熊谷と初めて行って、三月の春休みに知ったこの町に見られる人々の氏姓の話から話すことにした。
「先生によると、先生の岩城も美希の佐藤も地方豪族の苗字なんだって。千葉、及川、熊谷、畠山、三浦、小野寺等の氏姓は平泉
の藤原四代を潰した後に所領を貰ってこの地域に下向してきた鎌倉幕府の御家人達のものなんだって」。
「えっ、凄い話ね、私達のクラスの殆どが千葉に及川、小野寺、熊谷、畠山、三浦の姓じゃん。俊ちゃん、鎌倉のお侍の出なん
だ」。
「平泉、藤原氏滅亡の後の奥州の治安と復興を手がけたのが葛西清重。清重は所領として北が江刺、水沢辺りから東に陸前高田、
大船渡市、西に一関、栗原、南に石巻、女川辺りまで貰った。彼は藤原討伐の後の奥州総奉行だった。この清重から四百年も続
いて葛西一族がこの町と周辺を治めて居たんだ」。
「伊達じゃないの?」。
俺や熊谷が一等最初に驚いたことと同じような事を美希は言う。俺は頷いただけだ。
「葛西一族の最後の当主、十七代目、葛西晴信が天正十八年。一五九〇年に豊臣秀吉から小田原北條攻めに参加しろと命令され
た。だけど、参陣しなかった。そのため天下統一を図る秀吉の奥州仕置きによって葛西一族は所領没収になった。滅亡するん
だ。
しかし、そこには、実は伊達政宗の隠された謀略があったんだ。先生の話だと政宗は第一に晴信の小田原参陣を阻止した。晴信
の小田原参陣を邪魔したんだ。
第二に、晴信が秀吉と接触する機会を潰した。嘘八百を使って晴信を騙し、葛西晴信が秀吉に近づけないようにした。晴信か
ら秀吉に所領安堵の申し出を出来無いようにしたんだ。
第三に、政宗は旧葛西領内の一揆を煽動して晴信がお家再興を断念せざるを得ない状況に追い込んだんだ。かつての領内から
太閤検地に反対する一揆が発生すれば秀吉が本領安堵やお家再興を認めるわけがない。それどころか政宗は一揆を煽動し、味方
の振りをしていながら後で裏切り、その一揆騒動で女子供を含む約五千人もの葛西氏郎党を佐沼城でナデ斬りにする。殺したん
だ。
第四に、政宗は葛西一族の残党狩りを行い、葛西一族を殲滅した。その手口が、所領を安堵するからと葛西氏家臣達に呼びか
け、政宗を信じて集まってきた彼等を今の石巻市にある須江山というところで皆殺しにした。
政宗は秀吉の奥州仕置きで父祖伝来の土地の殆どを失い、換りに葛西領を自分の領地として貰う事になって態度を豹変させた
んだ。一揆煽動が秀吉に知られたら政宗は自分の身も危ない。だから口封じした。
葛西領の地域に住んでいた人達は伊達領に変って自分の身の保身のため葛西一族を口に出来なくなった。後世の人達の口に葛
西一族が上らなくなった。葛西一族が歴史から消えたんだ。それが現代に至るまで四百年も続いたんだね。俺達、岩城先生に聞
くまで葛西一族なんて聞いたこと無かった」。
美希は俺や熊谷や京子と同じように初めて聞くことだと素直に驚いた。疲れたらしい。上げていたベッドの上半身部分を元の形に戻して横になった。