(サイカチ物語・第三章・藤沢野焼き祭り・8)

 

 坂を下る途中から美希の右手を握った。

「昨夜はあの後、小父さん小母さんとこれからのこと、何か話し合ったのか?」。

 美希は首を振る。

「お母さんがあの後も起き上がれなくて・・、結局、お父さんとも話し合えなかった」

 若年性乳がんは症状の進行スピードが早い、その一文が俺の頭の中に蘇った。どこかで少し話し合う時間が欲しい。その思いが頭の中を占めた。駐輪場に着いたけどPCXに乗る気にならない。そうか、病院がある。町民病院の待合室なら今の時間空いているかもしれない。

「ちょっと町民病院に寄って行こう」。

 美希の右手を離さなかった。美希は素直に応じた。

 午後も六時の時間帯になると、入院患者の見舞いに訪れる家族等は病室に直接向かう。病院玄関でスリッパに履き替えて中に入ると、思った通り右側にあるカンファレンス室は消灯されていた。カンファレンス室は冬場の寒い時期になると暖房が入り臨時の待合室になる。それが何時の間にか年間を通して待合室に利用されるようになっていた。俺はその事を思い出したのだ。出入口の側にあったスイッチを押し、灯りを点けた。

 一番奥に折りたたまれた長テーブルと椅子が幾つかある。その手前に低いテーブルを真ん中にしてコの字型にソファーが置かれてある。テーブルの上には八重咲きの赤いペエチュニアが花瓶に生けられていた。入り口から奥のソファーに二人並んで座った。

何からどう話そうか。俺の方が緊張した顔を見せていたのかも知れない。

「手術しないよ」。

 美希がいきなり言った。

「若年性乳がん、昨夜、インターネットで検索してみた」。

「えっ」。

 俺の方が驚いた。美希の部屋にはパソコンが見当たらなかった。聞くと座敷の片隅に家族共用のパソコンとコピー機を置いてあるのだという。小父さんと二人だけで簡単に夕食を済ませて、小父さんがおかゆを持って小母さんの寝ている部屋に行った後、検索して見たと言う。俺が父を相手に葛西一族の話や町のキリシタン伝来のことを話していた頃に美希は調べていた。しかも聞いてみると、俺が検索したものと同じ解説書を開いていた。

「手術しないわけにはいかないだろう。腋窩リンパ節の転移が認められる場合は腋窩リンパ節(かく)(せい)、リンパ節の切除が必要と書か

 れていたろう」。

「おっぱいを切り取るなんて・・、絶対にイヤ」。

「そうじゃない。乳房温存手術と腋窩リンパ節の切除とはそれぞれに違う手術だ」。

 俺の(にわ)か知識で言った。

「乳房にあるしこりは四センチぐらい。石灰化は広がっていないと説明受けたんだろ。先生がそう言っていたんだろ?」。

 美希は首を縦に振る。

「だから乳房はそのまま温存。だけど、腋窩リンパ節に転移が見られるって説明を受けたんだろ。それを取って術後の治療方針を

 決めるために転移個数を調べる。説明書にも再発防止のために必要なんだって書かれていた。

  医者じゃないから確定的なことは言えないけど、俺が言っている事に医者が一杯補足することがあっても、およそ間違ってい

 ないと思う」。

「乳房にメスを入れるのよ。傷が付くのよ。絶対にイヤだ」。

「仕方ないよ傷ぐらい、命とどっちが大事だ」。

 美希は両手で耳を塞いだ。下を向いて体を震わせながら泣き出した。俺は仕方ないよ、傷ぐらいと言ったことと、命に関わることを軽く口にしたことに後悔の念が湧いた。

 左手で美希の肩を抱き寄せた。そうしている他に方法はなかった。待合室に明かりが点灯していたせいもあるのだろう。見舞い客らしい年配の女性がドアを開け入ろうとして入らずにドアを閉めた。学生服の俺をみてどう思っただろう。隣にいたセーラー服姿の美希が泣いているのに気づいただろうか。どう思われても良い。

 美希は少し落ち着くと、乳房温存手術して、その後、放射線治療が必要なんだよ。髪の毛が抜けるかもしれないと言う。仕方ないと今度は言わなかった。分っていると言った。みんな美希のことだもの、受入れると言った。

「嫌いにならない?」。

 涙に濡れた顔だ。

「嫌いになるわけないだろ」。

 そう言って、キスで応えた。

 嫌いになんか成るもんか。俺は心の中でも叫んだ。待合室の円い壁時計は間もなく午後七時だ。

「小父さん小母さんが心配するから帰ろう」。

 外に出ると夕闇が濃くなり始めていた。気温が暖かかったけど雲行きが怪しい。西の方角に黒雲が見える。天気予報では夜半から雨の予報だ。急いで帰ろう。

 俺の後を追う美希がしっかり運転できるか心配になった。途中何度か振り返った。

 美希の家に着くと、小父さんの自家用車(くるま)が玄関口の右のいつもの所に停めてあった。美希を送り届けてそのまま帰っても良かったけど、昨日も最後は小父さんに会わずに帰っている。その事もあって挨拶して帰ることにした。

 土間のある居間に入ると、小父さんと小母さんが昨日見た定位置に座っていた。美希の心配事の一つだったのだから小母さんの顔を見ることが出来たのは何よりだ。小父さんは笑みを見せて、上がりなさいという。挨拶してすぐに帰るつもりだったがなんとなく断りにくかった。