(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・39)
「亡くなった武将達の記録から見えて来るのは佐沼城の戦いも須江山の惨劇に遭ったのも多くは江刺、胆沢、吾等のこの藤沢町を含む一関、花泉、千厩、小梨の東山勢に大船渡、陸前高田市等の気仙勢、南三陸の本吉勢、登米の西郡勢だったことが分る。
また、かろうじて生き延びた者の家に残る家系図等から政宗に仕官する者よりも南部信直を頼った者が多くいた、盛岡や三戸等の地に身を落とした者が多くいたことが分かる。葛西晴信の子孫も南部藩に身を寄せていた。
晴信自身は大谷の荘も追われ、加賀藩の前田利家公を頼って身を寄せた。その異郷の地で慶長二年というから一五九七年かな、六四歳で亡くなったと伝わっている。
晴信は家督を継いでから祖先が南北朝時代に失った栗原郡、遠田郡などの所領を回復し、天正十八年を迎えた時には三十二万石もの武将となっていたのだからやはり戦国大名としての資質があったと言うべきだろう。そんな彼がまんまと謀略にかかった。奥州仕置きを探って、伊達政宗なしに葛西一族の滅亡を語る事は出来ないと知った。
歴史に埋もれた葛西一族の四百年の歴史と滅亡をまだまだ探り、分った分だけでも後世に伝えていく。それも今に生きる我々の役割というか、宿題なんだろうね。
サイカチの木に託したお家再興を晴信は果たすことが出来なかった。だけど生き延びた人々は、悲惨な佐沼城の戦いを経験した、須江山の惨劇を目の当たりした、あるいは聞いた、だからこそ、お家再興をサイカチの木に一層託す気持ちになった。
サイカチの木は生き延びた人々の生きる支えになった。それがまた死んでいった者への供養にもなったんだ。だから自分の身が浪人に成ろうが百姓の身に落ちてもサイカチを家の門々に掲げる人々が後世ズーッと続いた。昭和の半ばまで正月の門松は松では無くサイカチの枝を飾る家もあった。私は不思議に思っても、その謂われを知らないで育ったね」。
先生は笑顔を作った。そして言った。
「葛西家の家紋は三つ柏で宮城県立石巻高校の校章だよ」。
「えっ」。
聞いてびっくり。
「校歌にも歌われている(別掲⒚)」。
三人とも二度びっくりだ。葛西氏は現代にも生きている。
「先生、俺達の同級生に葛西という姓の者が居ませんけど、矢っ張り葛西一族の滅亡と関係しているんですか?」。
熊谷君の質問だ。
「そうだね。勝者、伊達政宗は、その地の早期安定と平穏を築くために、前の支配者の影を一掃するために葛西と名のつく者は徹底して排除したろう。また葛西姓だった人はその姓だけで命を狙われた。他国に出るか密かに残っても姓を変えるしかなかった。また南部藩を頼って行った。
葛西姓は岩手県の盛岡より北部、青森県三戸近在に残る。氏姓だけの問題では無い。私も君達も葛西一族なんて、それにまつわる話なんて知らなかったろう。勝者の徹底した歴史隠しが行なわれたんだ。この地域周辺に住む後世の人々も我々も気づかずに今の今までそれに翻弄されていたことになる。千葉君」。
「はい」。
「葛西一族の滅亡は奥州千葉一族の滅亡でもあったんだ」。
「えっ・・・?」
「平泉、藤原四代が崩壊した後の所領を源頼朝から貰った葛西氏初代清重は祖先を遡れば桓武天皇、高望王、平良文から続く千葉一族の出だ。
葛西清重と共に平泉の復興と治安に貢献した千葉成胤、鎌倉時代末期に下向してきた千葉頼胤の一族。この町周辺の千葉一族は南北朝時代も室町時代も信長の安土桃山時代も歴代の葛西太守に寄り添って支えてきた。
奥州仕置きの時に上方軍に対峙した大将も佐沼城の最期の一揆軍の大将も千葉だったね、それどころか葛西晴信に楯突いたあの浜田広綱も、地名から浜田だけど、姓は千葉だ。千葉安房守広綱だ」。
私は、自分の躰が思わずぴくついたのが分った。自分の先祖ではない。そう思っても千葉姓で何処かで何かが繋がっているように思えた。先生に頼もうと思っていたことをこの際に口にした。
「先生、先生が上方軍に対抗するために集まったという和渕と神(香)取、それに何でしたっけ。あっ、そうか、森原山。その時の武将達の名前がありましたね。あの資料、コピーいただけますか?」。
「ああ、いいよ。後で下にコピー機あるからコピーしていくといい。そうかその資料USBに入っているからそれをパソコンでコピー機に飛ばせばいい。その方がバインダーから外してコピーするより綺麗な資料になる」。
私は先生が机の中から出したUSBを受け取ると、お言葉に甘えて先生のパソコンを借り指示通りに操作した。後で下に降りたらコピーを貰って帰ろう。印刷部数を3とした。
「先生は、須江山、糠塚に行って来たと言いましたよね。他に先生が行って見て来たとこって何処ですか。特にお奨めの場所って有りますか」。
及川君が言う。それで先生の古城巡りの話になった。
