(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・38)
十五
「私は、三年前の八月、学校が夏休みの間に須江山に行ってみた。石巻線の佳景山駅のすぐ近くだ。駅は小さく無人駅で簡易自動券売機が置かれているだけだった。
駅前に酒、雑貨を売る小さな店とクリーニング店、少し離れて新聞販売所があった。他には離れた所にコンビニがあったね。住所表示が石巻市鹿又字欠山とあった。欠ける山と書いて欠山、駅名の佳い景色の山と書く佳景山と違っていた。そのせいか駅名も印象に残るね。
駅の側の道路が東浜街道で、その街道の東側に標高どれくらいあるんだろう、大して高くない丘のような山が駅の目の前から南北に延びている。地図を見ながらそれが須江山だなと見当がついた。駅から道路を隔てた目の前の商店に入って殿入沢に行きたいことを告げ糠塚の方角を訪ねたら、おばあさんが態々お店から外に出て説明してくれた。
糠塚は駅から三、四百メートルぐらい歩いたね。教えられたとおりに行ってみると、大槻但馬守平泰常殞名地と書かれた石碑が車道の左側に建っていた(別掲⒙)。高さが台座も入れて二メートル近くあった。
大正三年十一月、文学博士大槻文彦建立とあった。大槻博士は明治時代に国語辞典の言海を編纂した人っていったら分るかな。岩波の広辞苑や三省堂の大辞林よりずっと前に編纂されたのが言海だ」。
「一関駅前にある大槻三賢人の銅像の一人ですよね」。
熊谷君が先生の後にそう言う。そうそう、それだと先生だ。
「大槻博士の祖先は葛西氏十六代目葛西親信から出ていて、博士は末裔だそうだ。そのためだろうね、葛西系図の補注にかなり力を注いだらしい。子孫が宮城県の桃生郡寺崎から岩手県の磐井郡流荘峠村、今の一関市花泉町に移住しそこから更に分家して金沢村の大槻館に居住。初めて大槻姓を名乗り、須江山の惨劇に大槻但馬守が遭遇した。その死を悼み建立したと碑文に書いてある。大槻但馬守の子孫は磐井郡赤荻村、今の一関市山目近在に隠れて、その後、近くの中里村に移住して今日まで代々続いたと博士は自ら奥州葛西記補注を表わし記述している。
その石碑の側に並ぶようにして殿入沢跡と書かれた一メートル程の標柱もあった。殿入沢は須江山からかろうじて逃げてきた武将達が進退窮まって自刃した窪地。その人達を代々慰霊してきたのが桑島さんという家の方々だった。
私は殿入沢は深い雑木林の中で水の流れる小さな沢と勝手にイメージして現場を訪ねて行った。だから桑島さん家の長屋門をくぐって庭と屋敷の後ろを流れる小川、それが殿入沢と呼ばれている所だと知って意外だった。私有地の中にある沢とは考えてもいなかったよ。
その沢のある場所から右手の急な山の斜面の階段の先に古ぼけた氏神様の祠が見えた。出てこられた桑島さんの家人が、伊達藩の手前、この須江山辺りで死んでいった人を慰霊する墓碑は造ることが出来なかった。あの祠を墓に見立てて先祖を慰霊してきたのだと語った。私は、拝ませていただいていいですかと尋ね、その二十段ほどの急な階段を上った。上るのは良いけど、下りるときは見る勾配がきつくて怖かったのを覚えている。
その後、教えていただいて、そこから須江山の山頂と言われる辺りまで杉と雑木の茂る細い道を上ってみた。あえて八月十四日にお線香とマッチを持って行ったんだけど、先に地元の人だという方が居た。木も草も何も無い、勿論墓石というものも無い僅かばかりの平坦な所に拳大の持ってきたという石を置いてお線香と花を供えていた。
山火事になるといけないから線香が燃え尽きるまでは休んでいくということだった。私の持参したお線香もそこに入れて貰った。その間、古老の話を聞くことが出来た。
殿入沢の名は葛西一族の城主、館主が自決した場所と言うことで、お殿様が入った沢と敬意を現しているのだと言う。須江山にも殿入沢にも今では訪れる人も無く、地元の人口も過疎化で大きく減少したから地元の人達の間にさえ須江山の惨劇が風化していくと言っていた。それが今も私の耳に残っている。
須江山の惨劇と言われる政宗の謀略。それによって葛西一族は完全に消滅した。藤原四代亡き後の所領を貰った鎌倉幕府の葛西清重から四百年余続いた葛西一族は、まさに息の根を止められた。
葛西晴信を裏切り、あの伊達政宗と内々通じていた富沢日向守、気仙の浜田等は、政宗が我らの主人になったらとその後の処遇に期待していたかもしれない。しかし、その余りに酷い佐沼城の仕打ち、須江山の惨劇は彼等をも裏切るものだった。
富沢日向守は佐沼城の一揆軍と伊達軍の合戦の様子を知って早々に盛岡に逸走し、その後、南部藩南部信直の家臣となっている。また浜田広綱は息子二人を須江山で失い、自らは南部藩に逃げ食客と成った。晴信書状に変心奇怪なりと書かれた同じ気仙の大和田宮内は須江山で殺されている。一年前の奥州仕置きの時の合戦で和渕方面の総大将だった千葉胤元も須江山で討死と寺の過去帳に記録されている。
政宗と内通していた葛西氏重臣葛西重俊、彼だけはその冬、天正十九年の冬に百貫文の高禄を貰って政宗に仕えている。政宗が葛西・大崎領の一揆を鎮めて新しい居城である岩出山に帰ったのが九月末だから重俊は政宗にすぐに召し抱えられたことになる」。
「許せない」。
及川君の一言が間に入った。
