(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・37)
「第四の謀略は旧葛西氏の家臣達を本領安堵の甘言を持って誘い、一カ所に集めてナデ斬りにした事だ」。
「えっ、まだナデ斬りがあるんですか?」。
私は思わず聞いた。熊谷君が須江山の惨劇だと言う。うん、と首を縦に頷いた先生が、政宗の残党狩りだと言う。
「政宗は、旧葛西・大崎領を確実に自分の物にしないと没収された伊達郡や信夫郡等を所領としていた家臣達にあてがう土地が無い。しかも肥沃な土地から北方の痩せた土地に移る。先祖伝来の土地から未知の地に移る家臣達の不満を抑えなければ成らない。だから新天地が不穏渦巻く土地で有っては尚のことダメなんだ。
佐沼城を落とした後、政宗は葛西・大崎一揆に参加した者、地域に隠れていた旧葛西等の惣領クラスに降伏を呼びかけた。成実記には一揆の物頭衆に呼びかけたとあるが、集められた人々の多くはかつての城主、館主だった者で、成実は一段蔑んで物頭と書いたんだと思う。
呼びかけは、処罰は問わない、降伏すれば所領を安堵すると言った内容だった。佐沼城の戦いを味わった者、それを伝え聞いた者達にとってこれ以上は無駄な抵抗、所領を安堵して呉れるならばと一縷の望みを思うのは当然だった。その中には政宗と内通していた者もいた。当初の一揆には伊達の旗指物も翻っていたのだ。呼びかけられた葛西氏の遺臣達は政宗を信じ、罠とも知らず恭順の意を表して降伏してきた。
政宗は深谷の長江景勝の居城だった小野城、今の宮城県東松島市小野にあった城だ。そこに降伏してきた者等を集めて、まずは饗応し、そして言うんだ。汝等の騒動せしめた罪は決して軽くない、しかし、太閤の名代として関白秀次公が近々下向する。その折に仔細無きよう取り計らってやる、と豊臣秀次の名を出していかにも本当らしく思わせぶりに話した。そのことは、伊達家治家記録に書かれている。
そして八月十四日午の刻、今のお昼時だね。桃生郡深谷荘にある須江山に改めて集まるよう指示する。彼等は須江山で本領安堵のお墨付きが貰えるものと思った。須江山の何処かに各々陣幕を張り、幟を立て従者と共に待った。改めて喜び勇んで深谷須江山に集まった者も居たろう。果たして、八月十四日、しかし、そこに待っていたものはーとなる」。
先生が語尾を伸ばして柄にも無くおどけた。気の重い内容の話が続いたからだろうか。私も熊谷君も及川君も次の言葉を待った。
「伊達の旗差し物を掲げた一団が東浜街道を進んでくる。泉田安芸の旗差し物も見えてきた。鉄砲、槍、弓等を担いだ夥しい数の武装集団がハッキリ見えてくると須江山は騒然となった。どう見ても、自分達に伝令するだけの姿形ではなかった。
しかし、一団の先頭を進んできた一派は須江山の裾を通り過ぎていく。やがて馬上から大音響が響いた。泉田安芸が主君伊達政宗の名代で来たと言う。そして、『政宗公は各々方との誓約の通り旧領安堵と助命について関白豊臣秀次に専心嘆願した、しかし、秀次殿は一揆の者どもをことごとく旗物にせよとおっしゃった』、と告げた。旗物とは磔だ。『最早これまでに相成り申した、政宗公に代わり各々方のお命頂戴仕る』、とあった。それが山で待機していた者達に聞こえたかどうかは関係無い。法螺貝がブオーと響き渡り、それが攻撃の合図だった。
須江山の後ろ手側に回った兵共々泉田安芸率いる伊達軍が一斉に襲いかかる。旧葛西の家臣達を有無を云わせずに皆殺しにした。それが今でも地元の人達に伝わる『須江山の惨劇』だ。
成実記には関白秀次の命でやったもので殺したのは二十余名と書かれている。また、秀次が、枝葉までも枯らさなければ後日の災い計りがたく一揆張本人の奴らはことごとく討伐しろと言ったと書き残し、秀次を借りて政宗の所業を正当化している。果たしてそれが本当かどうか分らない。秀次、家康等が、その頃、二本松まで進軍してきていたことは確かだ。
殺された者が二十余名とあるが、その本棚にある「仙台領の戦国誌」、その作者の紫桃正隆さんの調査によると、須江山の惨劇による犠牲者はそんな少ない数ではなく、優に百名は超えていたと言う。
紫桃さんは、お寺の過去帳や墓碑銘、各家に伝わる系図、古文書や岩手県史等を丹念に当たって調べたとある。精査仕切れていないと断りも付しているが、お寺の過去帳等に天正十九年八月十四日、深谷にて戦死と書かれてあれば、それは須江山の惨劇の犠牲者とみて間違いないだろうと言う。
素人の我々だって、全く同じ日に同じ場所で死んだことが記録されていたら、ああやっぱりと思うよね。紫桃さんは、七十名ぐらいの犠牲者の人名と、その当時に何処の城主だったか等も明らかにしている。貴重な資料だね。
一部の武将、武士は、命からがら須江山から逃げてきた。街道筋に出れば何とか逃げられると思ったらしい。しかし、たった一つの街道、東浜街道には伊達の鉄砲隊が待ち構えていた。人影と見れば撃ってくる。最早これまでと逃げてきた武士は糠塚の沢のある窪地に入り、そこで最期の水を飲み、喉を潤すと、ある者は自ら腹を斬り、ある者は刀を差し違えて自ら命を絶った」。
三人とも声が出ない。先生はその場の空気を変えるように話し出した。