(サイカチ物語・第二章・葛西一族の滅亡・36)

 

                                                          十四

「葛西・大崎一揆の話に戻ろう。京都から米沢に戻った政宗が体制を整え葛西・大崎一揆勢と実際に戦闘を開始したのが天正十九年六月下旬。

   最初の合戦は宮崎城、今の宮城県加美郡宮崎町、鳴瀬川の上流の田川という川の断崖絶壁にあった城だ。戦端が開かれた翌日の二十五日には宮崎城は落城したと古文書にある。一方その頃に秀吉の命を受けた豊臣秀次、徳川家康、上杉景勝(かげかつ)等が政宗を支援するため葛西・大崎の地に向けて馬を進めていた。

   伊達軍と葛西・大崎一揆勢との間で最大の激戦、最期の戦いとなったのが佐沼城の戦いだ。その戦況は日を追って葛西由緒記や伊達秘鑑など葛西側からも伊達側からも多くの戦記物語に書かれている。佐沼城は市町村合併で今の宮城県登米(とめ)市になる。古文書には城の周りを川が流れ、一方は深田、一方は大海のごとき大沼・・誠に堅固な要害なりとある。川の部分も含めて三つの沼、それが佐沼の地名の起源だとか。今も佐沼城の傍を迫川が流れ、本丸址の側に池の一部が残り土塁に続いて城を囲む外堀が残っている。古城跡らしくて一見の価値ありだ。

   佐沼城復元絵図(別掲⒘)が大門跡だったという所に掲げられていて沼と川に囲まれた城というのが一目で分る。また城の鎮護を願って鹿を生き埋めにしたと伝えられ「鹿ケ城(ししがじょう)」の別称がある。

   最期の合戦当時、佐沼城には女子供も籠もり一万人からの人がいたという。葛西家の遺臣に混じって住まいを失った大崎家の遺臣も含まれていたとあり、最早一揆勢と言うより、ちゃんとした武装集団、一揆軍ができあがっていた。

    一年前の木村父子救出劇の際の合戦で傷んだという城は修理修築されていたという。大将は葛西氏の一族、千葉(のぶ)(たね)と千葉重信(しげのぶ)の兄弟。対する政宗は佐沼に到着するや現在の佐沼中学校の側の西(くる)()の向山に陣を構えた。土地の人達は今は御陣場山(ごじんばやま)と呼んでいる。

   政宗は六月二十八日から佐沼城の総攻撃を開始した。この城を徹底して攻め破れば他の城や館、地域に籠もる一揆勢も退散、雲散霧消するだろうと見せしめの意味もあって容赦ない攻撃だった。一揆軍を疲れさせるために夜も攻めかかり眠らせなかった。一揆軍は良く持ちこたえたと思うよ。古文書には七月三日の夕方に落城したとある。

   政宗の重臣伊達(だて)(しげ)(ざね)、氏郷が前に話した名生城から会津黒川城に帰るまで人質にした彼だ。成実は伊達家一の武闘派でありながら筆まめな武将だった。彼の日記には城主は夜の内に欠落とある。つまり、夜陰に紛れて一揆軍を率いていた千葉信胤と千葉重信は城を抜け出た。葛西ノ内西郡と申す所にて討し候とあるから、逃げた胤信、重信を葛西領の西郡(にしごおり)というところで捕まえ殺した。

   また、城中、家中侍百姓ども二、三千余討ち果たし候は、家中というから女子供、老若を問わず、侍百姓を問わず二、三千人殺したことになる。泣き叫ぶ声が響き渡っただろう。そして、城中死骸多く土の色も見えず、死体を踏まないように気を遣って歩く有様だったと書き残している」。

「えーっ」

 私が出した声に構わず、先生の話が続いた。

「城中がいかに凄惨な様相を示していたかと思うね。後世に伊達のナデ斬りと言われているのがこれだ。その時、討伐軍の援軍として参加していた(のち)の南部藩当主・南部信直が家臣、田何とかに宛てた書状が残されている。そこには殺された一揆者は女子供も含め五、六千に上り伊達軍もまた千人からが討死にしたと書いてあるという。凄い数だ。その書状を残念ながら私はまだ目にしていない。見てみたいと思う。

 凄惨な状況は城中だけでは無かった。伊達秘鑑には、城を逃れようとして出てきた者は女子供であれ撃ち殺し容赦なく切り捨て死骸は道に累々とあふれて横たわり、流れる血に足の踏み場も無く佐沼川は真っ赤に血に染まり、また飛び込んで溺れ死ぬ者も数知れずとある。

 現代に残る佐沼の古城址を見ながらそこに死者の数を重ねて想像してみると、実際、足の踏み場もなかったろう、飛び込んで溺れたろうと思うね。

 城中城外の凄まじい殺戮の風聞はたちまちあちこちに伝わった。政宗の目論見通り一揆側の各拠点に籠もっていた人々は次々と退散、消えていった。残ったのは今日まで伊達のナデ斬りの一言だ」。

 熊谷君は清ました顔だけど及川君が頬を膨らまし息を吐き、私は口の中が乾く感じだ。少し間があって、先生が三人を元気づけるようにも聞こえた。さて、最後、政宗の第四の謀略だと言う。